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  • 手記ケース16 アパートで事件発生か!? 撮影には警察官が帯同する。 パサデナ在住 20代女性

    2020年03月18日 あの時何が起こった!?

    ある日のことです。車で帰っていました。夕方6時くらいだったでしょうか。辺りは暗くなり始めていてあまり遠くまでは見通せませんでした。この夕闇の時間帯は、街が息をひそめ、各家庭の灯りが窓から漏れ、人の営みを感じることができるので個人的に好きなんです。だから、あの日のことはけっこうよく覚えています。   右折して、10mくらい走って、もうすぐでアパートの駐車場の入り口にさしかかろうとしたとき、なんだかいつもと様子が違うことに気が付きました。何の変哲もない私たちの暮らすアパートがちょっと変なんです。雰囲気が妙にものものしい。少しずつ近づいていくにつれて、おびただしい数の車、そして人があふれていることがわかりました。なに?なにが起きてるの?空気がぴんと張りつめて緊迫している。隣は教会なのですが、教会の駐車場にもたくさんの人がいるようでした。さらに目を凝らすと、その車のうち何台かは警察車両だったんです。警官もけっこうな数いました。   何か事件が起きたに違いない。事故?火事?それとも殺人事件?銃の事件?平和だと思っていた我がアパートに異変が起こっていることを俄かには受け入れられず、パニックになりそうな自分を抑えるのに必死でした。「どうしちゃったの?」子どもの呑気な声が聞こえてきましたが「それはこっちが聞きたい」と心の中で思いました。まったく真相がわからないまま、誰に何を聞いてよいかもわからないまま、とにかく家に帰りたい一心で、入り口に向かってゆっくり進みました。停められるかと覚悟していたのですが、私たちが住人だとわかると係の人が誘導してくれました。   あれ?入り口から地下駐車場に入ろうとするとき違和感を覚えました。何かがいつもと違う。はて、何が違うんだろう。数秒遅れて違和感の正体が判明しました。私たちの暮らすアパートの名前を仮にABCとしましょう。普段ならそのABCを冠した看板がエントランスにでーんと立っているのですが、それがまったく違う名前のCalifornia(仮名)という名前にかわっていたのです。は?いつの間に?買収されたの?家主かわったの?こんな急展開ってあるの?何の連絡も来てないけど?もうわけが分からない。   事の真相がわかったのは、翌日リーシングオフィスのスタッフと話していたときでした。「ああ、ドラマの撮影だったのよ。だからほら、看板もいつも通りでしょう?」なるほど。確かにいつもの看板に戻ってる(笑)。昨日のそれは撮影用にすり替えられていたわけか。それは思いもよらなかったな。なんだ、言ってくれればいいじゃん。事前に住民に知らせておいてよ。心の中で毒づきましたが後の祭り。日本人のサガなのか曖昧に笑って会話は終わりました。こんな普通の街で撮影がおこなわれるとは!しかもうちで!まったく人生とはおもしろいものだ。   調べてみると、路上撮影する場合は撮影隊が当該のフィルムオフィスに必ず許可を取らなければならず、警官も帯同せねばならないルールになっているということでした。さすが芸術の街ロサンゼルス!路上の封鎖料や警官を雇うお金が必要だから、なるほど映画やドラマには莫大な製作費が必要になるというわけですね。   今となっては笑い話ですが、そのときは本当に驚きました。警官がいるとやはりドキッとします。心臓に悪い。この街では映画やドラマの撮影に急に立ち会うこともありうる、その場合は警官が帯同している、そしてそれは事件ではないということを念頭において、生活するといいかもしれません。  

  • 手記ケース15 肝に銘じよう「アメリカの基本は前向き駐車」 ロサンゼルス在住 40代女性

    2020年03月09日 あの時何が起こった!?

      アメリカ人の友人(日系人)に「日本人ってすっごく小さなことを大げさに語るよね」と言われたことがあるのですが、小さなことの共有は(大きなことの共有よりも)日常を助けるので私は大事だと思っています。本や講演会で受け取る大それたことよりも、世間話で耳にすることに生活が救われることって結構ありませんか?そんなわけで今日は、取るに足らない日常の、すごくすごく小さなことなのですが、個人的に驚いたことをお伝えしたいと思います。知ってて損はないはずです。   私は4年前に東京からロサンゼルスに越してきました。車の免許は、はるか昔大学時代に日本で取っていたものの完全なペーパードライバーでしたから、LAの暮らしで最も不安だったのは自動車免許の取得および運転でした。何度か落ちましたが無事に合格し、晴れて免許を取得。子供の学校送迎にも何とか慣れてきました。「赤信号でも右折可能」ルールに慣れるまでずいぶんドキドキしたものです。免許を取得したのが5月で、翌6月には子供を連れて一時帰国することになり、今度は日本で運転することになりました。当然ですが、右側通行でなく左側通行だし、駐車も前方からではなく後方からというのが日本では一般的ですごく混乱したのを覚えています。一時帰国の2ヶ月の間に、私はすっかり日本スタイルに浸かっていました。8月にアメリカに戻ってきたときに小さな事件は起こります。   普段からよく行く公園でした。小学校のすぐそばの、とても気持ちのいい公園です。芝生は広く、バスケットコートも野球場もローラースケート場もある。アメリカの公園って本当に素敵ですよね。公園の奥に駐車場があるのですが、いつものようにそこに停めました。90分まではフリーなので、それを頭に入れて駐車場を離れたのです。チケットをきられたらたまったものじゃありませんから要注意。子供たちは友達と存分に遊び、私たちは90分経たないうちにちゃんと駐車場に戻ってきました(いつも気を付けています)。   あれ?ワイパーのところに何か紙が挟まっている。小さな黄色の紙でした。違反と書かれてあります。え?90分経ってないのに?なんで?頭は軽くパニック。近くにチケットをきった人がいないだろうかと見渡しましたが、それらしき人はいない。こういうときは証拠を残すに限ると思い直し、チケットの写メを撮り、時刻を残し、ついでに90分フリーの看板もパシャリと撮影しました。証拠がなければ、のちにややこしい問題になってもただの文句で終わってしまいますからね。備えよ、常に。   しかし帰宅後、チケットの内容をつぶさに確認したところ、それは駐車時間に関する違反ではなく、駐車の仕方に関する違反だということが判明しました。驚くべきことに、前方から駐車していないという理由でチケットをきられたのです!一時帰国からアメリカに戻った直後で、私はそのとき日本の感覚そのままに「出るときに前進ですんなり出られるように」と後方から駐車していたのです。それがいけなかった。日本では後ろ向き駐車が推奨されていますからそれが無意識のうちに身についていたのでしょう。   そんなこともあるんですね。びっくりです。時間内でも、前向きか後ろ向きかでチケットをきられる。本当にショックでした。無駄な出費は心を蝕みますし自信を喪失させます。駐車の看板は目を皿にしてよく見ましょう。色々なところに落とし穴がありますから。

  •  手記ケース14 旅行中に覆面カーに呼び止められ、違法薬物所持を疑われる(前編) ニューオリンズ在住 30代女性  

    2020年02月28日 あの時何が起こった!?

      先日旅行したんです。アリゾナ州に。念願のアメリカ駐在中にやりたかったことは「家族でナショナルパーク巡り」でしたから。グランドサークルの大自然を家族で堪能することはずっと夢でした。ラスベガスでレンタカーを借りて、一日目はグランドキャニオンへ行きました。幸い天気にも恵まれ、素晴らしい景色に家族一同感動して、その日は何の問題もなく終了。二日目にグランドキャニオンからアンテロープへ向かう途中の山道で事件は起きました。   オレンジ枠のコンストラクションゾーン(工事中)という標識が道路の脇にあったのですが、わたし自身は一瞬目にしただけ。運転中の夫はまったく気付かなかったようで、通常の65マイルで走行していました。後で聞いたら、携帯のグーグルナビに「何マイルで走ることができる」という制限速度の表示がありますが、それが65マイルという表示だったので夫はそれに倣ったということです(最近のナビは本当に便利になりましたが、その分、街の実際の様子から情報を得る姿勢が自分から失われていっているのを同時に感じて反省しています)。   しかし、どうも様子がおかしい。バックミラーにダッジ(アメリカの自動車メーカー)の黒塗りの車が映り、わたしたちを追いかけている様子なのです。なぜわたしたちが追いかけられるのだろう。はて、本当にわたしたちのこと?それとも他の車のこと?釈然としませんでしたが、わたしたちの前方に車が一台走っていることを除けば、他には車なんて一台もなかったので、おそらくわたしたちのことなのだろうと思いました。   「停まれ停まれ」というので、それに従い、わたしたちは車を、砂漠のど真ん中の山道の脇道に寄せて停めました。本当に民家など何ひとつない、木も一本も生えていない、ど田舎だったのです。あとでわかったのは、この車は警察の覆面カーだったということです。ポリスカーに乗っていない警察官もいるのだとこのとき初めて知りました。   警察官は「コンストラクションゾーンのサインは見なかったのか?コンストラクションゾーンは35マイルだぞ」とわたしたちを責めました。彼と話すなかで、スピード違反で問われていることはわかりましたので、それを認めれば、すぐに解放されるのだろうとこの時は思っていました。が、あとで甘かったことがだんだんわかってきます。彼の質問に「見なかった。ナビの65マイルしか見ておらず、その速さで走行した」と応答したところ、「何か逃げる理由でもあるのか」とこう来たんです。びっくりしました。彼は完全にわたしたちを疑ってかかっていました。コンストラクションゾーンの標識に気付かず、通常のスピードで走っていただけなのに、逃げる理由があって意図的にスピード違反のまま走り続けたと決めつけているような物言いでした。そんなの、言いがかりだ。言いがかりに決まっている。彼はなぜそんな風に決めつけるのだろう。わたしたちはもしかして悪意を向けられている?30代の夫婦と小学生の子ども二人の、何の変哲もないこの家族に。もちろん、逃げる理由なんてわたしたちにあるはずがありません。それを告げて解放されるかと思いきや、しかし、そのあと警察官は驚くことを口にしました。 「君たちは、この車に違法な薬物のようなものを積んでいるんじゃないのか」   ~次回へつづく~

  • ケース13 Airbnbでホストとゲストが大げんか 現ロサンゼルス在住、元ハワイ在住 20代社会人  

    2020年02月20日 あの時何が起こった!?

     以前は、旅行の滞在先といえばホテルが主流、学生のバックパックの旅であればユースホステルでした。そこにここ10年くらいで普及しているのがAirbnb(エアビーアンドビー)。皆さんの中にも旅行や出張などでたびたび利用されている方もいると思います。世界の観光地や都市部で急激に成長しているAirbnbは、インターネットで予約してセルフでチェックイン&アウトできるなど便利なことから、自分がAirbnbホストになってAirbnbビジネスを運営する人も増えています。というと手軽なビジネスチャンスに聞こえるのですが、なかなか大変だと思う経験を私はしました。    私は現在ロサンゼルスで社会人をしていますが、学生時代はハワイに住んでいました。ハワイも観光地ですから、あちこちにAirbnbがあります。ハワイ時代、私はホームステイをしていて、ホストファミリーが運営しているAirbnbの一室を借りて住んでいました。    ホストファミリーは、ホストファザーがウエディングカメラマン、ホストマザーがウエディングプランナー兼ホテル勤務というフルタイムの仕事をしていましたが、ハワイの物価が高いこともあり、少しでも家計を楽にしたいとサイドビジネスとして、Airbnbビジネスをしていたのです。    とある週末。その日は、インドネシアから親子3人が午前11時にチェックイン予定。しかしホストファミリーが一日外出とのことで、私が代わりにゲストを迎えることになりました。店番ならぬ宿番です。ゲストが到着し、私は宿の中をひと通り案内しました。すると、ゲストが「暑いからエアコンを使いたいんだけど」と聞かれ、私は「扇風機はありますが、エアコンはありません」と答えました。ゲストは少し休憩して、外出。私も友達と約束があったので、外出しました。    そしてその夜、家に帰ったら・・・家の周りは数台のポリスカーに包囲され、赤青の警告灯がかなり派手に光っています。私は慌てて家の中に飛んで入りました。すると、なんと! 警官が止めようとする中、ホストファミリーとAirbnbゲストがつかみ合いの大げんかをしているじゃないですか!    その場はまさに修羅場。東南アジアなまりの早口の英語で ゲスト(以下:ゲ):「エアコンがないなんて聞いていない」 ホスト(以下:ホ):「ちゃんと記載してるでしょ?」 ゲ:「金返せ!」 ホ:「当日のキャンセルは返金不可!」 ゲ:「詐欺だ!」 ホ:「これ以上騒ぐながら警察呼ぶわよ!」    まあ、ホストが警察を呼ぶまでもなく、すでに警察は来ていたわけですが。結局、ゲストがさらに暴れるので、警察が他のホテルに案内し、ホストファミリーは70%をそのゲストに返金して騒ぎはおさまりました。この騒ぎ以降、ホストファミリーはAirbnbビジネスからは手を引いて、今はサイドビジネスはしていません。    Airbnbビジネスをやっている友達に聞くと、多いのは、ホストとゲスト、またはゲストどうしのケンカだといいます。ホテルと比べてリーズナブルに泊まれて、ほぼ自動的に過ごせるシステムが便利な反面、トラブルも多いということなのかもしれません。  

  • 【手記ケース4〈後編〉】 「雇用主を相手取った訴訟の罠」 ロサンゼルス在住 匿名Aさん(女性)  

    2019年10月30日 あの時何が起こった!?

     私は3日後にロサンゼルスから日本へ帰国します。取り返しがつかないことをしてしまい、おそらく二度とアメリカに来ることもできないでしょう。子どものころから夢だったアメリカ留学を2年もたたずに、あきらめなくてはいけない辛さはこのあと克服できないかもしれません。そんなどん底で落ち込んでいる私が何か他の人の役に立つことはないかと思い立ち、一人でも同じような目に遭う人が増えないよう、ここに匿名で投稿することにしました。   <前編 より>  「オーナーはすぐに違法を認めて示談金を支払ってくる」「訴訟することになったとしても、調停ですぐ和解金を支払ってくる」「弁護士費用は、成功報酬なので事前に支払う必要はない」などのその弁護士からのうまい話に乗せられて、私は雇い主を訴えることを決心。弁護士から言われるままに、何が書いてあるかもきちんと理解せずに契約書にサインしました。しかし、それから一年以上たっても示談や和解の動きも何もありませんでした。そんな中途半端な状況で今後どうなってしまうのか不安におちいった私は、ある無料のリーガルサービスに相談してみることにしました。ですが、ショックだったのは、リーガルサービスで受けた説明は、自分が思い込んでいたこととはまったく違うものだったのです。    大きく違ったことの一つには、私がサインした成功報酬契約書では、弁護士費用は成功報酬でも、裁判に関連する費用はすべて私が負担しなければならないことでした。裁判に関連する費用ですでに5万ドルくらいは掛かっているという説明でケタ外れの金額でした。さらにショックだったのは、私がデポジションを断って途中で訴訟をやめた場合は私が全額支払わなくてはいけないとのことでした。    アメリカでは、このような契約内容はごく普通なのだそうです。さらに、もし示談して和解金を受け取ったとしても私が実際にそのレストランで働いた期間が短いので、私の給料としての取り分は数千ドルしかありません。契約書に従えば逆に不足額を請求されるというのです。契約書によると、私が言われたとおりの金額を支払わない場合は、私個人に対して法的な処置をとることができる。またレストランのオーナーは従業員を長時間勤務させていても、休憩時間やオーバータイム分を支払っていれば違法にはならないし、チップを分けるのも違法ではないのです。    そのような説明を聞きながら、自分の無知さや浅はかさに取り返しのつかないことをしてしまったと愕然としました。私が相談したリーガルサービスの方によると、同様の苦情や相談が後を絶たないそうで訴訟に関して詳しく説明してくれました。たとえ雇い主に多少の法に反する部分があっても未払い賃金の額は少なく、示談金のほとんどは弁護士の取り分になること。訴訟になったら多数の従業員が訴訟に参加しないと、経費負担後の従業員の取り分は驚くほど少額になるのです。    結局、何がわかったかというと、私は弁護士のお金儲けにまんまと利用されたのです。雇い主との和解示談後に、労働条件が改善されることなど弁護士にはどうでもよいことだったのです。私が馬鹿正直に弁護士に言われるままに訴えを起こし、自分で何ひとつ理解せずに行動したことにより、自分自身をどん底に追い込んだのです。    デポジション(証言録取)はレストランのマネージャーやその上の人も立ち合いのもとで行われました。一日では終わらず、個人的なこともたくさん聞かれ、とても辛い思いをしました。それを境に食欲もなくなり、学校へ行くことさえ嫌になってうつ状態になってしまった私は、弁護士事務所を訪れこの訴訟を途中でやめたいと告げました。すると弁護士の態度が急変。訴訟を途中でやめる場合には私が訴訟費用の全額負担をしなければならないことなどを、含みを込めるように次々と言い始めたのです。    私に対しての何万ドルという巨額の請求、法的に何をされるかもわからない恐怖は言葉では言い表せるものではありません。私は自分の夢も何もかもを投げ出して、追い立てられるように、帰国する決心をしました。  

  • 【手記ケース4〈前編〉】 「雇用主を相手取った訴訟の罠」 ロサンゼルス在住 匿名Aさん(女性)      

    2019年10月25日 あの時何が起こった!?

      私は3日後にロサンゼルスから日本へ帰国します。取り返しがつかないことをしてしまい、おそらく二度とアメリカに来ることもできないでしょう。子どものころから夢だったアメリカ留学を2年もたたずに、あきらめなくてはいけない辛さはこのあと克服できないかもしれません。そんなどん底で落ち込んでいる私が何か他の人の役に立つことはないかと思い立ち、一人でも同じような目に遭う人が増えないよう、ここに匿名で投稿することにしました。    私はアメリカに来てまもなく、学校で許可されている時間内の仕事では生活費がまかなえないことに気づき、日本食のレストランでパートを始めました。英会話には慣れていなかったので、日本人のお客様が多く、チップがもらえたので助かりました。そのレストランでのパートを始めて間もなく、カウンターに座る常連のお客様と親しくなりました。いつもわりと暇な時間に来るので、共通の世間話をしたりしていました。そのお客様はいつもキャッシュで支払い、チップをたくさん置いてくれていました。最初はまったく気が付きませんでしたが、今思うとすべて事前に計画したことだったようです。    ある時、偶然このお客様と私の二人きりになった時、「あなたが働いているこのレストランはみんな長時間の仕事をさせられて、オーナーばかりが儲けて労働法違反しているから、私がオーナーに掛け合ってみんなに還元してもらえるようにしてあげるよ」と言って名刺をくれました。名刺を見ると弁護士事務所の方だったのです。確かに一緒に働いている年配のパートの人もいつも仕事がキツいと話していましたし、オーナーは忙しい時には言葉遣いも荒くなるし、労働条件は決して良くないなと感じていました。そこで、何か自分に改善できることがないだろうかと思い、名刺をくれた方の弁護士事務所へ連絡してみました。    弁護士事務所でまず言われたのは、「オーナーに労働法違反を指摘する通知を送付し、未払いのオーバータイム賃金等を請求すること」。さらに「一緒に働いている2~3人のスタッフにも声をかけて同調する仲間を探してほしい」とのことでした。また、その弁護士が言うには「通常オーナーは通知を受け取ると、すぐに違法を認めて示談金を支払ってくる」「オーナーから返事がなく、訴訟することになっても調停ですぐ和解金を支払ってくる」とのことでした。それと、弁護士費用については、成功報酬なので事前に支払う必要はないと言われ、契約書のような書類にサインしました。    そのようなうまい話に乗った私ですが、当時、英語はほとんど読めず、労働法もまったく知らず、成功報酬契約書の内容もまったく理解していなかったのです。そしてその後に起こったのは、最初に弁護士から聞いていた話をくつがえす一連の事柄でした。その事柄とは、私は一緒に働いていたスタッフ全員に集団訴訟をしようと勧誘たものの、結局誰も参加しなかったこと。また、私がオーナーと思っていた人は実は雇われマネージャーで、レストランは会社で経営されており、訴えられたとしても違法なことはしていないのでレストラン側は和解を考えていないこと、でした。    その間、弁護士は 裁判所へ資料を提出したり、専門家を雇ったり、通訳が立会ってレストランのマネージャーを二日間質問したりしていたようですが、本格的に訴訟になったら私は自分の雇用主を訴えた原告ですから、レストランにいづらくなって辞めました。しかし、さらに困ったのは、私が自分の働いているレストランを相手取って訴訟を起こしたウワサがコミュニティにも広まり、その後に働く先を見つけようとしても募集先でことごとく断られ、どこでも働くことができなくなったのです。    そんな状況下である日、弁護士からデポジション(deposition:相手方の当事者や第三者を、公証人の立ち会いの下で、宣誓させたうえで尋問し、証言を録取すること)をしなくてはいけないと言われました。デポジションするということは、レストラン側の弁護士が通訳立会いのもとで私に質問し、その記録は証拠として正式に裁判記録に残るのです。   <後編につづく>  

  • 【手記 ケース2 〈後編〉】 「DUI : プロベーション期間中の3度目」  ウエスト・ロサンゼルス在住 JTさん(男性)  

    2019年10月04日 あの時何が起こった!?

    3回目のDUIで逮捕され、まず最初にわかったのは、私が出廷するのはコンプトン裁判所であること。1ヶ月に一度は出廷して検察官などお役所の人たちと話し合いを持たないといけないということ。しかし、ショックだったのは、あまりに裁判にかかる人が多すぎて順番待ちのため、自分の裁判が終了するのは5ヶ月先!まだまだ先の話だということだった・・・。   <前編よりつづく>  そのDUIで逮捕された5年前、ちょうど私は自分の会社が債務を負っていた状況下で、金銭的にも全く余裕もなく、保釈金など払えるはずもなかった。それが一つの理由だったが、三度目の失敗の罪を償うことを心に決めた。そしてカウンティジェイルでの生活が始まった。    裁判判決が出るまでの5ヶ月間、私が寝泊まりしていたのは、あのテーマパーク、シックスフラッグス・マジックマウンテン近くにある郡の留置場。そこから月に一度、コンプトンの裁判所に出廷することを言い渡された。私は最終の判決が出るまで、この留置場から裁判所に5回ほど通った。    私が収容されたのは、刑に処された人が入る刑務所(プリズン)ではなく、判決待ちの人などが入る短期間の留置場(ジェイル)ではあったが、本当にたくさんの人が収容されていた。巨大な敷地は、いくつかの棟に分けられていて、ノース棟、サウス棟、そして私がいたスーパーマックス棟で構成。一つの棟に5万人ほどがいて、部屋がたくさんある。各部屋には2段ベッドが置かれ、一部屋に60人が寝る。留置場内では収容者用の色分けされた服を着用するのだが、私のような軽犯罪者はブルーの服、重犯罪者は映画やドラマでもよく見るようなオレンジ、怪我人や病人は茶色など、細かく分かれていて他の色もいくつかある。    ここにはギャングの人たちもたくさんいたし、ショッピングモール内でスケボーに乗ってセキュリティに捕まり、裁判に行かなかったことで10日間拘留という、やってはいけないことだが重犯罪と比べたら本当にささいなことで入っていた青年。交通違反で裁判に出廷していなくて、旅行から帰ったところを税関で捕まり、そこから直接ジェイルに護送された人というのもいた。    留置場内は、夏は冷房、冬は暖房と快適に過ごせる気温が保たれているし、三食用意され、テレビもある。その他は何もすることがないので、究極に退屈だ。ただ、ここに来てよかったと思うのは、来る前より健康になったこと。以前は血圧も高くメタボ気味だったところが、留置場の食事ときたら食べ物に塩気はまったくなく、毎日豆を食べ、テリヤキが出てもうっすらとしか味のついていない病人用の食事に近いものが出る。インスタントラーメンを買ったとしても、熱湯を犯罪に使われないようにゆるま湯でしか食べられないので美味しくない。タバコも吸えないし、朝もちゃんと起きて、夜ちゃんと寝るために昼寝もしない。そんな規則正しい生活で血圧もかなり下がった。    そんな生活の中で唯一、外出できるのが月に1回のコンプトン裁判所への出廷。これこそは1日が長く感じる苦痛な日だった。朝5時に起きて、3人一つのチェーンに繋がれてバスに乗せられ、LAダウンタウンにあるツインタワーに護送される。ここで各裁判所への仕分けがされる。またバスに乗せられ裁判所に着き、そこでまた長い間待って、話し合いに入る。ものの10分ほどで要件は終わり、またバスに乗ってツインタワーで仕分けされ、夕刻にマジックマウンテン近くの留置場(自分の寝床)に戻る。といったほとんど意味をなさない一日で終わる。    5か月後の判決で裁判長が私に言い渡したのは、罰金などのほか、執行猶予4年、ロサンゼルス郡からの外出禁止。そのために1ヶ月に1回裁判所を訪れ指紋採取を行うことだった。4年間きちんと通った。しかし、同時期にビジネス上での訴訟に負けて自分が保有していた8万ドルも取られ、差し押さえにも遭った。    そして先月プロベーション期間を終えた。そんな状況だったところから、私は手に職を生かして仕事を始め、今また一歩一歩着実に前に進んでいるのです。

  • 【手記 ケース2 <前編>】 「DUI : プロベーション期間中の3度目」 ウエスト・ロサンゼルス在住 JTさん(男性)    

    2019年09月25日 あの時何が起こった!?

    先月の8月で、5年間のプロベーション期間(保護観察期間)が終わった。50代半ばでDUIで逮捕された自分にとって、この5年はなんとか自分の人生を立て直そうと必死で働いた。一歩一歩ゆっくりではあるが、前を向いて歩きだしている。     追突した車が逃走!  3度目のDUIで逮捕されたのは5年前の2月のこと。ゴルフコンペの賞金が入ったので帰りに仲間とみんなでトーランスの居酒屋で食事して、わいわい賑やかに楽しい時間を過ごした帰りだった。もともとたくさん酒を飲めるほうではないので、付き合い程度に飲んで食事を楽しんだ後、夜7時には店をあとにした。帰りは運転し、家のすぐ近くのフリーウェイの出口を降りようとしたその時、すぐ後ろを走っていたジープチェロキーに軽く追突された。    私はフリーウェイの脇に乗り上げる形で停車。すぐさまポリスカーが来た。その若い警官が私に「君、大丈夫か? すぐにUCLAのホスピタルに行って、体に異常がないかどうか検査に行きなさい」と話しかけているその瞬間に、信じられないことが起きたのだ。私の車に追突したジープが免許証や保険証の情報交換も何もしないまま、スーっとその場から立ち去った。いや、立ち去ったわけじゃない。逃げたのだ。     事故後の身体(血液)検査で飲酒運転が判明  走り去るジープを見ながら、警官に「あの車だよ!あの車が追突したのに逃げようとしてる。捕まえてくれ!」と私は詰め寄った。警官は、「大丈夫だよ。車のナンバーもわかっているし、後でレポートできるから大丈夫」と私をなだめる。ああ、そうか。とその時は納得した自分だったが、それに納得したのがそもそもの間違いだった。彼はまだ警官になりたての新米警官で、あろうことか、のちの裁判で「後ろに追突した車など、いなかったことにしてくれ」と自分の対応ミスをもみ消そうとして、裁判を長引かせることになる。    まぁ、そのことは置いておいて、とりあえずその足で、私はすぐまた停車していたフリーウェイから車に乗り込んでむち打ちやケガなどの身体検査のためにUCLAホスピタルへ行った。そこで行われた血液検査で、飲酒運転と判定される0.08以上の血中アルコール濃度が出てしまったため、そのまま逮捕されてしまったのだ。     逮捕からツインタワーへ  3度目のDUI。過去2度のDUIによる10年間のプロベーションが終わるまであと7ヶ月のところだった。プロベーション終了間際で再び逮捕された。初回のDUIであれば、一晩だけ留置場に拘留されて家に帰ることができるが2回以上、さらにプロベーション期間内での再犯となると、そういうわけにはいかない。    病院で検査が終わるとすぐさま逮捕され、ロサンゼルス・ダウンタウンにある「ツインタワーズ・コレクショナル・ファシリティ(The Twin Towers Correctional Facility)」、通称ツインタワー(LAダウンタウンのBauchet ストリートにある2つの棟でできている建物)に護送された。    そこで知らされたことだが、まずわかったのは、私が出廷するのはコンプトン裁判所であることだ。さらに1ヶ月に一度は出廷して検察官などお役所の人たちと話し合いを持たないといけないということ、さらには、裁判が終了するまでにかかる期間は5ヶ月というまだまだ先の話であること(あまりに裁判にかかる人が多すぎるため、かなりの順番待ち)。    たしかに保釈金10万ドル、またはベイルボンドを利用してその10%を払えば保釈されて、家から裁判所に通うことができるが、そんな高額な保釈金なんてどうやってもその時の自分には、捻出できるわけもない。    私はこれまでの罰を受けるべく、5ヶ月間を塀の中で過ごすことを心に決めた。   <後編へ続く>

  • 【手記 ケース1〈後編〉】 「DUI : 刑務所暮らしを強いる実刑判決」 トーランス在住 S.Gさん(男性)  

    2019年09月18日 あの時何が起こった!?

    自分が収監されたのはSupermaxと言う凶悪犯罪者や重犯罪の未決囚を主に収容する巨大施設であり、収容者数約7000名(当時日本人は私1人であった)。大きく区分けされたドーム状の部屋に7~80人が入る。鉄製の2段ベッドの真ん中に無理矢理ベッドを取り付けた3段ベッドに寝るのだが、下のベッドの人は身動きさえままならない。日々は、食べること寝ること以外はほとんどやることがない。せいぜい出所後に備えて体を鍛えるくらいだ。お菓子や日用品等の購入もできるが、現金は使えないので預けてあるお金の中から引き落とされる。   (前編 9月6日号より)  では、お金のない人たちはどうするのかというと、各々の得意分野を生かして商売をするのだが、絵心のあるものは便せんなどに、タトゥーを入れる図柄やイラストなどを書いて売る。中には、刑務所で支給されるシャツやパンツ、靴下などの備品を使って工芸品を作る人も。シャツの糸を一本ずつ解きほぐして取り出しそれをベッドの端などにくくりつけて他の糸と寄り合わせて紡いでできた丈夫な糸で、編み糸を作り、それを編み込んでネックレスや指輪、飾り物などの素晴らしい工芸品が完成する。それを購買日に、1~5ドルくらいで売る。買いたい人はどうやって支払うかというと、刑務所内での通貨代りとなるのがなんと購買することのできる袋のインスタントラーメン(主には、マルちゃんラーメンのスパイシービーフなどが人気)1袋がだいたい1ドルという価値基準である。   刑務所内でなんと酒を密造する人もいた。食事時に出るフルーツやジャム、ジュースなどを混ぜ合わせ発酵させて酒を作るのだが、これがなかなかうまかった。しかしある日、酒を精製する方法を知ってからは飲む気が失せた。というのも、フルーツやジャムなどを発酵させたものをろ過するために、なんと!靴下に入れてそれを絞っていたのだ。うわぁ〜である。   自分の刑務所内での立ち位置や分類のされ方として、大まかにはヒスパニック、白人、黒人の分類で分けられる。その中で、日本人である私はアザー(その他)である。それにより、食事をする場所やシャワーやトイレなども徹底した区分けがされ、それぞれの縄張りがあり(それを仕切るボスもいる)、それを犯せばリンチの対象ともなる。ここはやっぱり凶悪刑務所なのだと思い知らされる。   そんな刑務所で自分はあることをきっかけに先生をすることとなった。自分が若い頃にたしなんだ日本の武道の稽古の基礎練習をしていたときのこと。「それは何だ?」と、興味を示してきた人がいたので説明した。 「君たちはナイフやガンを用いて誰かをあやめたり、傷つけ怪我をさせたりしてここに来た人も多いと思うが、自分たちはこの指1本で相手を倒せる。 例えば『秘孔』と呼ぶ急所をつけばその瞬間は大したことがなくても数週間後、数ヶ月、あるいは数年後にはそこから神経が麻痺して腐ってきて終いには死に至ることもあるのだ。さらには武器を用いない暗殺技術なので証拠すら残らないんだ」と、まるで漫画の北斗の拳のような話をした。まるっきり嘘ではないが、まぁ八割方ブラフであるのは間違いない。 自分では冗談のつもりだったのだが、翌朝に10人余りの人間が手に手に朝食のバナナやりんごを持ってきて、弟子にしてくれ、俺にも教えてくれと人種関係なく人々が殺到。刑務所の中で一風変った稽古事を展開したのだった。 おかげでどのグループにも属さないアザーだった自分も、一目置かれることとなった。   とはいえ、70人余りの荒くれが暮らす房内はほぼ24時間唸りがするほどの騒音が絶え間なく続き安眠できることはまず無いし、常に何らかの危険にさらされている。やはり刑務所は刑務所、顔面や全身に地肌が見えないほどのタトゥーの入った輩がひしめき、1分1秒でも早くここから出たい解放されたいという数ヶ月を過ごした。   書けばきりがないのですが、全ては本当に経験したことであり、読んでいただいた皆様には、私の失敗話を他山の石としていただけたらと思います。飲酒運転は他者に対する危険をも伴いますし、万が一、捕まりかけたときには、ゆめゆめ逃げようなどとは思う事無かれ、と願います。  

  • 【手記 ケース1〈前編〉】 「DUI : 刑務所暮らしを強いる実刑判決」 トーランス在住 S.Gさん(男性)  

    2019年09月17日 あの時何が起こった!?

    それは5年前の3月某日のことでした。飲み会の後、すでに一度DUIで捕まったことがあるにもかかわらず未だ懲りずに車を運転していた時のことだ。ガーデナのウェスタンブルーバードの交差点を左折した時に、突然背後にポリスカーの瞬く光とサイレンの音、どうやら車線を外れていたらしい、しかし止まれば飲酒がバレる・・・やばい、どうする、また捕まってしまったら嫁さんや会社の人にも顔向けできん。    捕まりたくない。混乱とともに様々な思いが頭の中を駆け巡る。そして半ば酔っ払った意識がそうさせたのか、パトカーの停止命令に従うどころか、こともあろうに自分は思いきりアクセルを踏み付けていた。最悪の選択。そうそれがカーチェイスの始まりだった・・・。アメリカに住んで10年以上、テレビでもよく見るカーチェイス。ほぼ100%の逮捕率、よもや逃げ切れるわけなどないのは重々承知しているはずだった。    なのに始めてしまった。俺は逃げている。頭の中ではこれで人生おしまいだなというあきらめと、いや逃げ切れるかもというかすかな願いに似た思いが浮かぶも、不思議とまだ遅くないから今からでも止まろう、というまともな考えには至らない。半ばやけくそ、もうしょうがない、やっちまったんだ、今さら止まれるか、なるようになれだ!とばかりに逃げ続けた。今考えれば最低の行為であるのだが(-。-;。    短くも長くも感じた数10分の追跡劇の後、カーブを曲がり損ねスピンした車を前後からポリスカーに挟み撃ちにされ、めでたく?御用となった。気持ちはもう絶望というほかない。気がつけば周りには7〜8台の警察車両、運転席から出てみるとよく映画でみた世界。ライフルや銃を構えた警官が車のドアごしにすべての銃口を自分に向けている。赤いレーザポインターが自分の目線や体に当たっている。うわーっ、撃たれる!死ぬかも、そう思い両手を上げ2〜3歩前に出た瞬間であった。前方の警官が何かを発射した。その瞬間は今でも鮮明に覚えている。それは螺旋状にくるくると回りながら自分の胸に突き刺さり、瞬間的にだが、すべての身体機能が停止!そのままの姿勢で前向きに倒れたのだった。それがテーザー銃といわれるスタンガンの電気ショック銃であったのだ。今考えればそれが銃弾でなかったことが幸運というしかない。    通常のDUIであれば警察内の留置場に泊まる程度で釈放となる(その後の罰則や刑罰はそれなりに厳しいのだが)。まぁ要するに軽量犯罪扱いなのだが、自分の場合は、これにカーチェイスが加味される。この場合、英語でfelonyという重量犯罪となるのだ。留置場から通称ツインタワーと呼ばれる拘置所に送られ、そこから裁判所へと送られる。刑が確定するまでの数ヶ月は拘置所暮らしとなるのだ。    裁判の罪状認定では、例えば抵抗の意思がないのに問答無用のテーザー攻撃を受けたなど、自分にも些少の言い分はあったのだが、全て警察の言い分に対して「I agree (私が悪ぅございました)」と罪を認めたのだ。が、しかし、とりあえずの身柄の釈放は叶わず、出たければ保釈金約15万ドル(日本円で1500万円)。そんなお金は到底持っておらず、カミさんが必死に奔走して探してくれたbail bonds(身柄を留置された人の保釈金を立て替えてくれる組織。成功報酬は約10分の1を支払うことになる)を使って出ることができた。    保釈されたのは、実に逮捕されてから半年が過ぎた頃だった。その後、紆余曲折いろいろとあったが最後の裁判で出されたのは、1年の務所暮らしを強いる実刑判決であった。自分としては実刑を覚悟していたので、残していくことになる女房子供の食べていくための手立てだけは付けておいたのだが。家を一緒に出るときには無理に笑顔を作っていた妻が、刑が確定し手錠をかけられてそのまま護送される自分を、泣きながら見送る姿が不憫で、また申し訳ない気持ちでいっぱいであった。    いよいよ、ここから、いわゆる凶悪犯罪者と暮らす最悪の日々が始まるのだ・・・。   (後編へつづく)