連載・コラム ロサンゼルスで暮らす人々

編集: Weekly LALALA - 2019年11月20日

ZEROになった今この瞬間

KENTO

KENTOの360度クリエイションによるエンターテイメントの世界。限界を超えた新たな挑戦が今はじまる。 KENTOインスタグラム:kento_km1

11月8日。この日突然、ダンスアーティストKento Moriがこの世から姿を消した。

突如として彼のオフィシャルインスタグラムのフォトやムービーは消され、その他のソーシャルメディアも白紙になった。

Kento Moriに終止符が打たれ、唯一の存在『KENTO』が降り立った瞬間だった。

 

新生KENTOの思いを聞いた。「僕にとって20代は、アメリカを拠点に世界の偉大なアーティストたちとステージを共にして作品を作り上げ、エンターテイナーとして人間として成長させてくれました。

そして、30歳になった瞬間に、自分にしか生み出せない、まだ世界のどこにもない新しいものを作りたいと思うようになった。

ダンサーとして人の作品に参加するのではなく、自分自身によるコンセプトやビジュアルにサウンド、それらを丸ごと作り出す『360度クリエイション』。

今からスタートするのは、これまでのKento Moriのリミットを超えた新しいチャレンジなんです」

 

初日にはインスタグラムに1st AR『I’m Back』のティーザーがリリースされた。

実際に目で見てその凄さを確認できるこの新しいエンターテイメントでは、現実世界に仮想オブジェクトを反映するAR(拡張現実)をプラットフォームに、彼の360度クリエイションが重ね合わされた空間が見る側の目を圧倒する。

 

幼い頃にマイケル・ジャクソンのパフォーマンスを見て、エンターテイナーへの夢を抱いた。「マイケルは死ぬまで自分のヒーローであり続ける」と偉大なレジェンドへの思いを熱くする。「マイケル・ジャクソンは歌って踊ることでたくさんの人たちに夢を与えた。僕も人々に夢を届けていきたいし、自分自身も限りなく大きな夢が見てみたい」と話す。21歳でダンサーを目指してロサンゼルスに渡り、マドンナをはじめスターたちに選ばれし世界的ダンスアーティストとして、10年にわたってエンターテイメントシーンで活動してきた。

 

ワールドツアーなどで世界50か国を回りグローバルに活動する中で、日本人としてのアイデンティティや日本の素晴らしさを意識するようになったという。

「23歳の時にマドンナが僕に言ったんです。

『その黒い目、黒い髪というあなたに備わったオリエンタルの要素は、本当に素晴らしいものなのよ』って。

それは、マドンナを含め彼女のチームのみんなが僕に見出してくれた宝物。

『日本人、オリエンタル』は確実に僕の魅力や強みであり、自分にしかできない表現、世界観になっていきました」

 

そんな彼の究極のゴールは「世界平和」。

音楽やダンスが地球上のすべての人を繋ぎ、そこには国、人種、言葉、カルチャーなどといった壁など存在しない。

 

2020年、KENTOの新たな挑戦「Dream1.」が大きく羽ばたく。

まもなくitunesで『I’m Back』がリリース。ビジュアル、サウンド、ダンスはもちろん、ロゴなどのアートワークまですべてクリエイトしていく。

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  • 俳優転身の夢追い渡米

モデル

ケイ・フィリペック / Kei Filipek


 

    俳優転身の夢追い渡米 モデル ケイ・フィリペック / Kei Filipek  

    2019年05月23日 ロサンゼルスで暮らす人々

     日本とオーストラリアのルーツを持つケイ・フィリペックさんは、そのアドバンテージを生かしモデルとして活動する。しかし、2018年にロサンゼルスへやってきた目的は俳優転身。現在は活動のかたわら、カレッジで演技を勉強しながら夢実現を目指している。「小学生のころからファンタジーの世界にあこがれて、現実ではないほかの世界で生きる経験をしたいと思っていた」と、俳優を志す理由を語る。  京都生まれ京都育ち。オーストラリア人の父とは英語で話し、日豪を行ったり来たりの生活を送っていたフィリペックさんが「現実ではない世界で生きたい」と思うようになったことにはわけがあった。「小学校のとき、ハーフであることからいじめられました。別の世界に入り込みたいと思い、本や映画に救われたんです」。はじめは現実逃避から入り込んだスクリーンの世界。しかし、ある日あこがれのファンタジーワールドを作り出す俳優という職業は、別の世界で生きることを実現できる手段だと気づいた。  シャーロック・ホームズが好きで、英BBCのドラマ『シャーロック』を見たときにはベネディクト・カンバーバッチ演ずるホームズが「思い描いていたホームズそのまま」だったことに衝撃を受けた。「俳優たちに救われて、いろいろな世界観に生きることに惚れました。カンバーバッチはスマートな役が多く、奇才で頭のいい演技をしながらもヒューマンドラマを見せる。彼のように人の心を動かす俳優になりたい」。その思いは日に日に強くなり、あこがれは夢へと変わっていった。  元来、人前に出るのが好きな性格。小学校6年で始めたドラムはLAへ来るまで続け、「パフォーマンスが終わったときの解放感、スリルが好き」と話すようにオーディエンスの前での演奏を楽しんでいた。モデル活動も「やっていて楽しい。人に撮られるのは好き。カメラの前で演技をするという面では俳優と同じ。いい経験になるし相互作用がある」と、俳優を目指すためのベースになっている。  ハリウッドに来て、「自分が行動しないと何もできないと思った。どれだけ這い上がっていけるかは自分次第。立ち向かって壁を乗り越えてやる」と、より現実的に夢に向かうようになった。「別の人物になるということは、簡単そうで難しい。役柄や背景について勉強しないといけないし、自分の中でキャラを確立させなければならない。自分の武器は英語。豪米日のアクセントを生かして、どの国の役でもできるようになりたい」と話す。かつてはつらい経験となった〝ハーフ〟というバックグラウンドを武器に変え、夢に挑んでいる。

  • 「実行すること大事」

ダンススタジオオーナー/ インストラクター

浜垣 威  / Takeshi Hamagaki


 

    「実行すること大事」 ダンススタジオオーナー/ インストラクター 浜垣 威  / Takeshi Hamagaki  

    2019年05月16日 ロサンゼルスで暮らす人々

     ブロードウェイの舞台に立ち、NYC、ラスベガス、マイアミ、プエルトリコなど世界で活躍したダンサー、浜垣威さんは、80歳を超えた今も現役で教える。週に3回、大人のプロダンサーを相手に、スタジオシティのハマダンスセンターにてアドバンスクラスを開いている。「ダンスは頭も肉体も使う。自分の踊りを通してけじめ、礼儀、根本的な社会性を養うことができるし、いつまでも若くいられる。武道でも頭と体両方を鍛えないといけない。踊りも同じ。それが未だに続けられる理由」と元気の秘けつを明かす。  高校卒業後は事務の仕事をしていた浜垣さんだが、兄に「運動神経がいいからダンスをやってみたらどうか」と言われ、夜間学校に通いながらバレエを習い始めた。19歳のときに日劇に入りダンスと出会い、5年間在籍。1年後にオーディションに受かり、大きなステージに立った。「ダンサーとしては遅い」と笑う。1964年夏、NYCへ渡り“ジャズダンスの王様”と呼ばれるルイジについた。さまざまなスタイルのダンスを学び、「7年間いろいろな苦労をしながら、皿洗いからいろいろなことをやって。だんだん仕事が入ってきてビザも取れて」、活動が徐々に軌道に乗り始めた。ブロードウェイのショーやラジオシティ、テレビが出てきたころから『ナイトクラブ』というレビューショーにも出演。活気のある業界の中で「勉強しかない日々」を送っていた。「ジャズダンスは西洋の踊りだから、日本人の顔は必要とされない。その中で打ち勝つには、うまくなるしかなかった」と振り返る。  ルイジのスタイルを継承しながらも、独自のダンスを発展させていった浜垣さん。1971年にLAへ移住し、数多くのテレビ番組や映画、ナイトクラブのショーに出ながら師であるルイジの下で踊りを教えていた。1991年にはスタジオをオープン。 「50歳でスタジオを持つと決めていて、51歳で始めた。手の届く目標を持つことは大事」と説く。地に足をつけ、実生活と夢と理想をしっかり自分で育てなければ人真似になってしまう。人は育ててはくれず、人のまねでは商売にならないと考える。  「僕はとにかく踊りが好きで、踊りには正直に生きてきた。自分なりの哲学がないと人生がおろそかになる。毎日を大切にいいことをしていればいい結果は出る」。人生において、実行するということを大切にしてきた。「若者には夢を持ちなさい、実行しなさいと言いたい。見ているだけじゃなくて、とにかく足を突っ込む。勝負すること。自分に正直に、何になりたいのか決めること」。 それを体現してきた浜垣さんのことばには重みがあり、説得力がある。

  • 取り戻した人生の忘れ物

ハープ奏者

鈴木 みりあむ   /  Miriam Suzuki


 

    取り戻した人生の忘れ物 ハープ奏者 鈴木 みりあむ   /  Miriam Suzuki  

    2019年05月09日 ロサンゼルスで暮らす人々

     挫折は突然次の扉を開けることがある。ハープ奏者、鈴木みりあむさんの場合もそうだった。琵琶湖の湖畔で育ったみりあむさんのハープとの出会いは5歳のとき。叔母が始めたことをきっかけに家族で京都在住の先生に習い始め、ハープの美しい音色にすぐに夢中になった。ところが引っ越し先で先生が見つからず辞めざるを得なくなり、その後続けていたピアノでヘルシンキの音楽学校に学び、日本に帰国後、1983年に家族とロサンゼルスへ移った。  子育てが終わったころ、ある挫折を経験し心から落ち込んでしまった鈴木さん。そんなとき、クリスマスシーズンに40人ほどが大小ハープを持ち寄りモールで演奏しているのを見たことを思い出した。その瞬間「人生に忘れ物をしていた」と気づいた。すぐにハープの先生を探すと、会って間もなく意気投合し、促されてその場で弾いてみると、子どものときにやった曲を弾けてしまった。その場でハープを借りて帰り、弾くことが楽しくてたまらない生活が始まった。  しかし仕事の傍ら睡眠時間を削ってハープに没頭していたところ、数年後に腱鞘炎を発症してしまう。さまざまな治療をしたが完全に弾けない状態が1年間続いた。試行錯誤していたある日、左手薬指が原因だと気づく。「3本なら弾き続けられるかもしれない」。そう考えて新たに先生を探すと演奏フォームをすべてやり直し、徹底的に脱力を練習。1本の指が完全に使えなければ、当然レパートリーが限られ、運指の変更やアレンジの必要も出てくる。それでもあきらめずに取り組んでいると、自由に湧いてくる思いを表現できる形が自分の中から生まれてくるようになった。腱鞘炎という挫折が自らの作曲の能力に気づかせてくれ、「ほかの人にはできない自分だけのハープ」を生み出すことにつながった。  現在は日米での演奏活動を中心に、オーディエンスと思いを共有できるコンサートを目指す。指導も行っているが、みりあむさんが教えるのは大人。「自分が大人になってから始めたので、ぶつかる壁などがわかる。その人自身が培ってきたものを活かせるよう導きたい」。ハープは大人が始める楽器に適している。初めてでも音をすぐに出すことができ、何よりもその美しい音の響きは小川のせせらぎやそよ風のように心に作用し、日々のストレスを癒してくれる。「ハープを奏でることで心をリセットでき、性格が変わる人も多い。ハープは怒りながらは弾けないから」。弾くことで〝心を深く養われる〟ことに気づいたみりあむさん。そんなハープとの出会いに感謝を込めて、これからも癒やしの音色を奏で続ける。

  • 「勝利で恩返しを」

アマチュアボクサー

赤井 英五郎 / Eigoro Akai


 

    「勝利で恩返しを」 アマチュアボクサー 赤井 英五郎 / Eigoro Akai  

    2019年05月02日 ロサンゼルスで暮らす人々

     ロサンゼルスの大学を昨年卒業し、今回1年ぶりに戻ってきた赤井英五郎さん。東京五輪出場を目指すアマチュアボクサーだ。今夏行われる大会に向けた合宿のため、再びこの地を踏んだ。  小学校6年でハワイに留学。中学ではラグビー、ハイスクールではバスケットボールとアメリカンフットボールをプレーした。ボクシングを始めたのは、大学のためにLAに移ってからだ。ボクシングをやろうと思ったときに東京五輪が発表になり、「これも縁かな」と思ったという。「それまで興味はなかったけど、父が父だし。大学進学のときに今後の人生を考えたら、学業は後からでもできるけどスポーツは時間が限られていると思った」。  父は元プロボクサーの赤井英和。引退後は俳優として今もなお活躍中だ。「子どものころから父のことを言われて比べられて、それが嫌でやらなかった」というボクシング。しかし「どういうスポーツなんだろう」という気持ちが湧いてきた。実際にやってみると、その難しさを痛感。それまでやってきた競技とは体の使い方も違い、「パンチを受けるだけでも体力を使う。1対1だから自分の短所も自分でカバーしないといけないし、お互いをカバーし合えるチームメイトもいない」と、個人競技の厳しさを知った。  まずはアメリカで試合に出ようと考えたが、経験試合数の少ない選手が出場できるノービスクラスではミドル級の対戦相手がなかなか見つからず、3試合連続で流れてしまった。そこで「日本でやってみよう」と考え、大学を休学して帰国。地元関西で選手登録し、ようやく試合に出場することができた。2018年からは「他の選手たちはみんな、場数が違いすぎる。とにかく自分はグローブを着けている時間を増やしたい。みんなが1練習するなら自分は3やらないと勝てない」と、より選手の多い東京に移り、12月に4回目の出場で社会人全日本選手権を制した。  現在は、五輪を目指す理由をこう語る。「東京農業大学と帝拳ジムで練習させていただいて、恩返ししたいと思っている。そのためには試合で勝つことしかできない。五輪に出場して結果を残せれば、それ以上の恩返しはないと思っている」。どういうスポーツなんだろうという興味本位で始めたが、父の発言力は大きく、「メディアで自分の名前が出てしまったし、生半可な気持ちではできない。挑む覚悟にはプロでもアマでも差はない」と胸のうちを明かす。  日本、ハワイに次ぐ〝第三の故郷〟だというLAは、「ド素人でボクシングを始めた」赤井さんを真剣に受け止めてくれた。「帰ってきた感じがするし、息抜きになる」というこの街は夢への挑戦も支えてくれる。

  • コンプレックスを自信に

プラスサイズモデル/女優/コメディアン

藤井 美穂  / Miho Fuji


 

    コンプレックスを自信に プラスサイズモデル/女優/コメディアン 藤井 美穂  / Miho Fuji  

    2019年04月25日 ロサンゼルスで暮らす人々

     〝自由の国〟といわれるアメリカで、自分らしさを発見した藤井美穂さん。プラスサイズモデル、女優、そしてコメディアンという肩書を持つ。インスタグラムでは6万5000人のフォロワーがいるインフルエンサーだ。  日本人にとっては聞き慣れない〝プラスサイズモデル〟という言葉だが、欧米では世間的認知度は高い。米国の一般女性の平均であるLLサイズ以上のモデルを指す。「日本では外見のことをすごく言う。『あの子、自分のことかわいいと思ってるよね』が悪口になるって怖い。ここでは、生まれ持った変えられないことについては言わないという暗黙のルールがある」と藤井さんは語る。  子供のころから目立つのが好きで、小学校の学芸会では選ばれずに泣いたこともあるという。13歳でずっとやりたかった劇団に入り、役者活動を開始。しかし、中高一貫校へ行きはじめるといじめにより不登校になった。高校は別の学校へ進学。そこで「特技が欲しくて」入ったなぎなた部で競技に打ち込み、インターハイ、国体にも出場した。練習がキツくて「今よりずっと細かった」という当時だが、体型のことで辛い思いをすることはしばしばあった。スキニージーンズを履いていたら友人に笑われた。それでも傷ついた反応はできず、面白い反応をしてしまう。そうすると「イジってもいい」と思われてしまう。そんなことの繰り返しで、何度も傷ついた。  渡米を決意したのは、舞台を学んだ短大でのこと。国際的に活躍する演出家に出会い、「世界に出ろ」と言われ大きな影響を受けた。卒業後、女優を目指して渡米。語学学校で1年間英語を学んだ後、ロサンゼルスの演劇学校に入った。言葉の壁はまだまだ厚いと感じながらも、英語で即興演劇や漫談にもトライしていた。そんなある日、友人のすすめでプラスサイズモデルについてのYouTubeチャンネルに出演。これが藤井さんの人生を変えた。ソーシャルメディアのフォロワーが増え、スポンサーがついた。日本のプラスサイズ雑誌にも出た。「やってから面白いなと思い始めて、自分自身がすごく変わった。自信をもっていいんだと気づいた」という。  「私なんて」と自分で可能性を消してしまっていた日本を飛び出し、可能性が広がった。「あれもやっていいんだ、これもやっていいんだ、と思えるようになった」と話し、日本ではコンプレックスでしかなかった外見をほめられ「人は自分のいいところを見てくれている」と気づいた。「それを、日本で昔の私のような思いをしている子たちに伝えたい。自己肯定感を高められるようにしてあげたい」。共感者であり、伝道者。それが藤井さんだ。