連載・コラム ロサンゼルスで暮らす人々

編集: Weekly LALALA - 2019年11月13日

時代の流れに合わせてこつこつと

健康関連商品輸入販売会社社長

マイケル 木桧

Michael Kogure


 

社員約200名、アメリカ国内に7支店を構え、美容・健康をテーマに商品の企画開発・製造、卸売販売を行うU.S. JACLEAN, INC. Presidentのマイケル木桧さん。
U.S. JACLEANオフィシャルウェブサイト www.usjaclean.com

健康王国、日本では「一家に一台」のマッサージ器具。アメリカでも一家に一台を目指しマッサージ器具を売り続けて38年になるU.S. JACLEAN, INC. Presidentのマイケル木桧さん。社員約200名、アメリカ国内に7支店を構え、美容・健康をテーマに商品の企画開発・製造、卸売販売を行う同社は、1982年に木桧さんが一人でガレージからスタートした。

 

設立当初は健康ベルトや健康サンダルなどの小物を主に取り扱っていたが、ビジネスの拡大とともに大型商品を取り扱うようになり、現在はマッサージチェアを主力商品としている。

「ビジネスを始めた80年代初めは、全米に健康食品店がたくさんあってビタミン剤や自然食品などが注目されていましたが、アメリカの人々にとって『マッサージ=健康』という概念は存在していませんでした。今でこそ指圧やマッサージはポピュラーですが、当時はマッサージ機を紹介しても風変わりな商品という見方しかされなかったので、商品を浸透させるには時間と労力がかかりました」

 

初期に売り始めたのは、背中に当てて突起が単純に回転するだけのポータブルのマッサージ機。

木桧さん自身が乗用車のトランクにマッサージ機を積み込んで地図を片手にロサンゼルス中を走り回り、一軒一軒販売先を開拓していった。

 

マッサージ商品の売り上げアップに拍車をかけたのが展示会への出展だった。

「トレードショーやフェアなど人が集まる場所に片っ端から出て行って、デモンストレーションをしながら展示販売をしていきました。馴染みのない商品に対しての抵抗があっても、実際に目で見て触れてみることにより商品の魅力が伝わり、人々が買っていってくれるようになりました」。

飛ぶように売れることはないものの、こうしたこつこつとした努力を積み重ねることでビジネスは成長していった。

 

アナログ的なデモ販売を続けながら、近年はオンライン販売や自社ブランド「Daiwa Felicity」の構築に力を入れ、トレンド、デザイン、機能性にこだわった商品を人々のライフスタイルに提供。

時代の流れや消費者のニーズに敏感になることも大切にしている。販売促進の努力と同時に、木桧さんが大きな課題とするのが盤石な組織づくりだ。

「社員の人種、国籍は様々ですから意思疎通も一筋縄でいかないのが当たり前です。しかしそこも努力で、カルチャーや国民性の違いがある中で、それぞれの特徴と強みを掴んで実力を発揮してもらいたい。確かにビジネスを拡大することも大切ですが、それ以前にスタッフ一人ひとりの情熱が継続していける職場環境、チームワークの構築に焦点を当てた組織づくりを考えていきたいと思っています」。

精力的に展示会への出展を行い、売り上げ向上に繋げる。

情熱あふれるチームワークづくりが大切だと話す木桧さん。元気いっぱいの社員と一緒に。ダラス店にて。

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  • “和”の感性と広大な自然 融合アートで喜び伝える

アーティスト
森山 正 / Tadashi Moriyama


 

    “和”の感性と広大な自然 融合アートで喜び伝える アーティスト 森山 正 / Tadashi Moriyama  

    2019年07月16日 ロサンゼルスで暮らす人々

     DTLA近くのスタジオでキャンバスに向かうのは、アーティストの森山正さんだ。 「自分が感じた喜びを視覚化し、その絵で人に喜びを与えたい」という思いから色を塗り重ねる。   絵画に興味を持ったのは中学生のころ。上野の森美術館にMOMAを見に行き、一気に見方が変わった。 「それまでは、絵は本の中での平たいものだと思っていた。それが、特にゴッホとか3Dでボコボコ突き出ていて、色も目に焼き付いて」。ゴッホらの現代美術作品を見て、自分も絵を描きたいと思うようになった。   16歳のとき、交換留学でオレゴンへ。「こんな世界があったのか」と、人々の人生の楽しみ方が自分とはまったく違うことに衝撃を受け「絶対にまたアメリカへ行こう」と心に誓った。   日本へ戻り、英語の勉強に励みつつ絵を描く学生生活を送り、美大に進学。 2004年、ペンシルベニア大学芸術大学院でやはり絵の勉強をしていた妻のレイチェルさんに出会う。2年後に大学院を修了し、NYCでアーティストとしての生活が始まった。   イタリア、サンフランシスコで個展を開き、マイアミやNYのアートフェアに出店するなど順調に活動していた森山さんが、レイチェルさんとともにロサンゼルスへ移住したのは5年前。   「LAに来て良かったのは、自然に近いということ。NYでは都会に入り浸る生活だった。ここでは自然の中へ出かけていくので、作品にもそれが現れる」。   NYで描いていた絵は「内に入っていく」イメージだったが、LAではより開放的に外へ向かっていく作風に変化。満天の星空や、Sci Fi系のイメージの作品に仕上がっている。   東京育ちの森山さんが、カリフォルニアの広大な土地を眺めているうちに変わった。 「アメリカ西部の色鮮やかで宇宙に延びていくような風景をインスピレーションにしたSF物語を作りたい」と、アニメーションも並行して制作している。 「絵だけだと『きれいだね』で終わってしまったり、メッセージがなかなか伝わらないことがあるけど、そこに動きが加わるとストーリーが生まれてくる」。   「絵を描くのはエクササイズと同じ」と、スポーツ好きらしい独特の表現をする。ウォーミングアップして徐々に体を動かし始め、波に乗るまでは苦しい時間だが、リズムが出てくれば「産みの苦しみ」は楽しさへと変わり、作業に没頭しはじめる。 「地球規模の社会問題などのテーマから描き始めることがあるけれど、そこに対する恐怖を助長するのではなく、その先にある希望や夢を表現したい」。   自分の感情を描いているからこそ、その時々で違った作風の絵ができあがる。それが森山さんの作品の魅力でもある。

  • 「おふくろの味広めたい」

料理講師/フードライター/日本食プロデューサー

酒井 園子
Sonoko Sakai


 

    「おふくろの味広めたい」 料理講師/フードライター/日本食プロデューサー 酒井 園子 Sonoko Sakai  

    2019年07月10日 ロサンゼルスで暮らす人々

     ニューヨークで生まれ、東京、サンフランシスコ、メキシコで育ち、再び日本を経てロサンゼルスへ移り、以降は米国で暮らす酒井園子さんは、日本の「おふくろの味」を広めるためにフードライター、料理講師として活動する。「いろいろな場所で過ごしてきたけれど、やはり私の原点は日本」と話す。   祖母、母はともに主婦、5人兄弟の大家族という環境もあり、めったに外食のない家庭に育ったためか、子どものころから「家で食べるものが一番おいしい」と思っていた。 〝食〟への興味も大きく、UCLAの大学院生だった30年前には、先生のすすめで日本の家庭料理についての本も出版した。しかし卒業後は映画の道を選択。配給会社でバイヤーとして、後にはプロデューサーとしてキャリアを積み重ねていた。 ところが2008年、リーマンショックの影響を受け、プロデュースした映画の興行が失敗。ショックは大きかった。 「映画は文化事業。自分の中では一つの文化を広めるためだった」と打ち込んでいた仕事に区切りをつける決心をしたのは、ちょうど10年前。 気持ちを切り替え、身近でできる仕事は何かと考えたとき「日本の家庭料理は海外ではあまりきちんとした形で紹介されていない」と気がついた。 「日本料理はエッセンシャル。どんな職人であろうと、出したいのは〝おふくろの味〟」。ビジネスのためではなく家族のために作る、日本が築いた家庭料理の味を広めたいと考えた。そして日本食のクラスを開講するなど地道な活動を開始した。   酒井さんが特に興味を持ったのは蕎麦。米国では穀物として蕎麦が作られ、その蕎麦が日本に輸出されている。この現実に疑問を抱いたことがきっかけで、日本に行き蕎麦職人に弟子入りした。酒井さんの手打ちそばのクラスでは、ただそばを打つだけではなく出汁など日本料理の基本について教える。 今では蕎麦のスペシャリストとしてメディアにも登場するようになったが、「私はクラスをやって家庭料理を広めているだけ」と笑う。 自分にとってのセラピーである粉を打つことが、ほかの人にとっても癒やしになるのがうれしい。 食文化は「日本人が一番プライドを持って外に出せるもの」だが、海外ではまだまだ誤解や先入観を持つ人が多い。 欧米では〝日本食=スシ〟と考えられがちだが、日常的な家庭料理はまったく別物で、その存在は知られていないのが現状。 「華やかな映画の世界に比べたら今の仕事は地味。でも残る人生は日本の食文化のことだけやっていく。それほど日本食は奥が深いから」。   映画で叶わなかった日本文化の伝達に、酒井さんは〝食〟という違う形で挑戦している。  

  • 「映画通し生き方学んだ」

映画監督

落合 賢 / Ken Ochiai


 

    「映画通し生き方学んだ」 映画監督 落合 賢 / Ken Ochiai  

    2019年07月04日 ロサンゼルスで暮らす人々

     ロサンゼルスを拠点に、日本とベトナムでもプロジェクトを展開する映画監督、落合賢さん。たとえ国がどこであろうと、映画作りや映画に携わるところすべてが「自分の居場所」だという。初めて映画を作った12歳のときからそれは変わらない。「小さいころから映画を作り続けていて、もう24年ぐらいになる。ずっと映画中心の人生を送ってきて、映画を通して生き方自体を学んだ」と話す。  映画作りの楽しさは一つ一つの過程にあり、頭の中にあるやりたいことを一つ一つ具現化していき、各スペシャリストのビジョンが徐々に加わりできあがっていくプロセスや観客と共有することを含めた一つの大きなうねりを楽しめるのだと、その魅力を語る。  日本の高校卒業後の2002年に渡米し、南カリフォルニア大学(USC)、アメリカ映画協会付属大学院(AFI)で映画作りを学んだ。これまで短長編合わせて30本以上の作品を撮っている。長編映画は計5本。3カ国を股にかけて活動していることもあり、なかなか目標の「年に1本の長編」は難しいというが、全米映画監督協会審査員賞、国土交通大臣賞、ヒューストン国際映画祭最優秀短編映画賞、札幌国際短編映画祭最優秀短編映画賞など数々の賞を受賞し、着実にキャリアを積み上げてきた。  映画制作の際に意識するのは、〝人と人とのつながり〟だ。「昔からそのテーマは変わっていないけれど、年を重ねるごとにつながりのあり方は変化してきている」と明かす。映画監督にとって一つ一つの作品は、その年年での自分のあり方や成長を記録する「柱につけた身長のキズのようなもの」だという。いろいろと折り合いをつけなければならない部分は出てくるものの、そのときの等身大の自分が作品に表れる。30代半ばになり、周りには第二、第三の人生を歩みだしている人もいる。家族を築く大切さを実感するようになり、「最新作では父娘のつながりを描くことに挑戦した」と語る。  ベトナムでの長期にわたる撮影を終えた現在は、住み慣れたLAに戻り脚本を書き溜める毎日だ。日本人として日本で生まれ育ち、20代から30代にかけて米国で学び、近年はベトナムで過ごすことも多い。そのクロスカルチャーを活かした作品を作りたいと考えている。スポーツものやミュージカル作品への挑戦や、まだ実現していない米国で英語の長編映画を撮ることも視野に入れている。  「映画は20世紀の芸術。21世紀の芸術、エンタメは何かと問われると、ゲームなどがあるがまだ映画に取って代わるものはできていないので、それを模索中」と、新たな分野の開拓にも意欲的だ。

  • 夢実現へ向け日系一世に「近道のチケットない」

漫画家

井上 三太|Santa Inoue


 

    夢実現へ向け日系一世に「近道のチケットない」 漫画家 井上 三太|Santa Inoue  

    2019年06月28日 ロサンゼルスで暮らす人々

     「成功への近道のチケットはない」。漫画家・井上三太さんが実感していることだ。昨年末、50歳手前で「ハリウッドで映画を作るため」にLAへ移住した。架空都市〝トーキョー〟に生きる若者を描いた代表作『TOKYOTRIBE』シリーズはストリートカルチャーとなり、ファッションや音楽に影響を与え、舞台、アニメおよび実写映画化された。世間から見れば〝成功〟だ。しかし、家族を説得し事務所を整理し、夢実現のため米国へやってきた。15年前、LAを訪れた際にコミックショップの店主と親しくなり「アメリカで映画を作りたい」と話すと「実現するにはここに住まなきゃダメだ」と言われた。そのことがずっと頭にあったが、海外移住のは大きな決断だ。だが、ビジョンが見えた。「科学的な根拠はない。でも明確に、アメリカで成功するというビジョンが見えた。これは勝負するしかないなと」。  米国で自分の漫画でアニメーション映画を作る。それが目標だ。「『TOKYO TRIBE』のタイトルで米国でアニメを作りたい。本気でやりたいんですよ。生半可な気持ちでは来てない。東京と香港とLAがミックスしたような街でちょっと近未来のSFにして、ストーリーは新しいもので。米国はストリートカルチャーやヒップホップの本場だけど、ヒップホップのアニメが存在しない。その2つを掛け合わせられれば商業的にもすごいものが作れる」と熱く語る。しかしその調合が難しい。「ヒップホップとの化学調合ができるアニメを作る人がいない。スケボーやドラッグが出てきたり、洋服の丈であったり、キャップだったり。一朝一夕でわかる問題じゃない。神がおれに与えてくれた才能というか、それを作れるのはおれしかいないと思ってる。それを証明したい」。  LAへやってきてすぐ、不動産屋に言われた事がある。「三太さんもこれから日系一世になるんですよ」。ハッとした。戦後、米国に残ってリトルトーキョーを作ったような元祖日系人たちの開拓者魂を感じた。「自分にもそういう開拓したいっていう気持ちがあるのかもしれない」。現在は移住から半年が経ち、日本の漫画雑誌での連載をLAから描く日々を送る。そのためにPCで漫画を描く技術も新たに学んだ。15年かかったが、移住という夢は実現した。しかし、映画の具体的な話は進んでいない。自分の漫画が世界一だとは思っていない。しかし、オンリーワンだとは思っている。この国で自分のニーズがあると信じている。自分が描ける漫画は米国人には作れないものであり、それを自分が生み出しているという自負がある。焦ってはいない。「すぐにはいいことは起きないんですよ。すぐに仕事がバンバン決まるということは。成功の裏には人一倍の努力がある。そんなうまい抜け道はない気がするんですよね」。一つ夢を実現したあとには、次のステップへ進むための努力が必要。それをわかっているから、今をがんばれる。

  • 「米国空手界のパイオニア」

空手家、スタントマン
出村 文男 / Fumio Demura


 

    「米国空手界のパイオニア」 空手家、スタントマン 出村 文男 / Fumio Demura  

    2019年06月27日 ロサンゼルスで暮らす人々

         「Karate」という単語が世界に広まり、根付いてから久しい。ここ米国でも各地に各流派の空手道場が数多く存在する。在米50年を超える出村文男さんは、米国空手道のパイオニア的存在だ。27歳のころに渡米し、演武会やショーによってその知名度と人気向上の立役者となった。  「空手と柔道が混ぜられていて区別されていなかった」という当時、まずはロングビーチで演武会を開く。これが当たり、ブエノパークで空手のショーを始めた。後にスターとなるショー・コスギ、スティーブン・セガールなども出演していたこのショーが成功を収め、次にラスベガスへ場所を移した。通常、日本の空手演舞は寸止めのため相手が動かない。そのため当初は観客の反応が悪かった。そこで、大げさに吹っ飛んだり痛がるなど打撃が当たったような動きを加え始めると、真に迫る迫力が大人気となり、観客を呼び込んだ。この評判がきっかけとなり、出村さんは映画界へ足を踏み入れることになる。  1977年、『Dr.モローの島』に出演し、空手で鍛え上げた身体を生かしたスタントを披露。SAG(米国映画俳優組合)にも加入しオーディションを受け始めた。「英語ができないから受からない」状態が続いたが、後に大ヒット作となる『カラテ・キッド』との出会いがこれを一変する。主人公の少年にカラテを伝授する〝ミヤギさん〟役のオーディションへ行き、英語のセリフが多かったため断ってしまった出村さん。役はほかの俳優に決まったが、後日「ミヤギ役の俳優が空手ができない。スタントをやってほしい」と依頼を受け、スタントマンとして出演することが決まった。同作ではシリーズ最後まで〝影のミヤギ〟を務め、その他さまざまな作品でもスタントマンとして活躍した。  本業の空手道では1968年から道場をオープン。1973年には撮影中に心臓麻痺で倒れ、5年前には医療ミスにより脳溢血を起こす不運にも見舞われた。手足に後遺症が残り、今でもリハビリのため折り鶴を折る毎日。しかし空手への熱意は変わらない。一代で築き上げた糸東流空手道玄武会の支部は米国だけで約50あり、世界では23カ国に1万人以上の弟子を持つ。サンタアナの道場では自ら教えている。「空手の根本は人間形成。気配りができて、世の中に出て役に立つ人間を育てるのが武道」と、礼儀や精神面の指導に重きを置く。「まだまだ長くここでやっていこうと思っている。アメリカに来て自分の世界が広がった。来た当時は大変だったけれど来てよかった。これからも支部を増やしていきたい」。80歳目前の今も、情熱を燃やし続ける。