連載・コラム ロサンゼルスで暮らす人々

編集: Weekly LALALA - 2019年11月06日

世界中の波に挑むサーフライフ

プロサーファー

五十嵐 キアヌ

Keanu Igarashi


 

2018/2019シーズンにNSSA (National Scholastic Surfing Association)総合ランキング1位を獲得した五十嵐キアヌ。ハンティントンビーチ生まれ育ちの17歳。今シーズンよりプロに転向

2018/2019シーズンにNSSA(NationalScholasticSurfing Association)総合ランキング1位を獲得した五十嵐キアヌ。

年間10戦を行う同コンペティションのSoutheast Conferenceカテゴリーで6戦中4戦の優勝を果たして今回の年間チャンピオンに至り、自身で初の快挙となった。

 

ハンティントンビーチ出身、ハンティントンハイスクールに通う17歳のキアヌは、この年にしてすでに世界の波を乗りこなす。

兄の五十嵐カノアは言わずと知れた世界トップサーファー。

ワールドツアーで海外を回る兄について行ってたびたびサーフトリップを重ねてきた。

物心つくころから彼が目の当たりにしていたのは兄を筆頭にしたトップサーファーたちのハイレベルなサーフライドばかりだった。

「俺が13歳くらいの時かな、初めてチャンピオンツアーに参加したカノアを見て、かっこいいなぁって思った。お兄ちゃんみたいに自分も世界を目指したい、世界をツアーで回りたい。これこそが俺が求めてるライフスタイルなんだと確信したんだ」

 

1年のほとんどをワールドツアーで回る兄を追いかけながら、キアヌ自身も六大陸を跨ぐダイナミックなサーフライフを繰り広げる。旅先で波に挑みながらサーフィンに勤しみ、ローカルの若きサーファーたちや、言葉もカルチャーも異なる人々たちと触れ合い繋がりを深める。

5年前の12歳の時に友達だけで行ったコスタリカの旅が本当に楽しかった! カリフォルニアだったら普通は海にいるはずのないワニが海にいたりとびっくりすることばかりだったけど、ハンティントンとはまた違う力強くて大きい波に感動した。世界トップ5に入る『長く乗れる波』にも乗って足がパンパンになったのが忘れられないな」

 

そんな世界の波を知るキアヌの大好きなサーフポイントは、やはり幼い頃から乗りつくしてきた地元ハンティントンの海だという。

「俺はやっぱりハンティントンが一番好き。実はね、ハンティントンとニューポートの間に自分で探して見つけた秘密のスポットがあるんです。いい波が来るし、たまにチューブやエアセクションもあるっていうかなり波のバリエーションが広い場所。しかも人がほとんどいない。お兄ちゃんはその場所を知ってるかって?どうかな。知ってるかもしれないけど、内緒にしておこう(笑)」

 

今シーズンはプロジュニアランキングを上げて、アマチュアからプロサーファーへ本格的に転向する。

そんなキアヌにとって兄カノアは、サーフィンを教えてくれた厳しい師であり、サーフパートナーであり、最大のライバルでもある。

「2年以内にはUSオープンに出場したい。ファイナルでカノアと兄弟対決になったら、俺が勝ってワールドチャンピオンになる!」と強気なコメントが頼もしさを感じさせた。

ターンで派手なしぶきを上げるパワフルなライディングをみせる五十嵐キアヌ

写真左から2番目がキアヌ。兄であるカノアはサーフツアーで海外に出ることも多いからこそ、ファミリーで過ごすひとときを大切にしている

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  • 取り戻した人生の忘れ物

ハープ奏者

鈴木 みりあむ   /  Miriam Suzuki


 

    取り戻した人生の忘れ物 ハープ奏者 鈴木 みりあむ   /  Miriam Suzuki  

    2019年05月09日 ロサンゼルスで暮らす人々

     挫折は突然次の扉を開けることがある。ハープ奏者、鈴木みりあむさんの場合もそうだった。琵琶湖の湖畔で育ったみりあむさんのハープとの出会いは5歳のとき。叔母が始めたことをきっかけに家族で京都在住の先生に習い始め、ハープの美しい音色にすぐに夢中になった。ところが引っ越し先で先生が見つからず辞めざるを得なくなり、その後続けていたピアノでヘルシンキの音楽学校に学び、日本に帰国後、1983年に家族とロサンゼルスへ移った。  子育てが終わったころ、ある挫折を経験し心から落ち込んでしまった鈴木さん。そんなとき、クリスマスシーズンに40人ほどが大小ハープを持ち寄りモールで演奏しているのを見たことを思い出した。その瞬間「人生に忘れ物をしていた」と気づいた。すぐにハープの先生を探すと、会って間もなく意気投合し、促されてその場で弾いてみると、子どものときにやった曲を弾けてしまった。その場でハープを借りて帰り、弾くことが楽しくてたまらない生活が始まった。  しかし仕事の傍ら睡眠時間を削ってハープに没頭していたところ、数年後に腱鞘炎を発症してしまう。さまざまな治療をしたが完全に弾けない状態が1年間続いた。試行錯誤していたある日、左手薬指が原因だと気づく。「3本なら弾き続けられるかもしれない」。そう考えて新たに先生を探すと演奏フォームをすべてやり直し、徹底的に脱力を練習。1本の指が完全に使えなければ、当然レパートリーが限られ、運指の変更やアレンジの必要も出てくる。それでもあきらめずに取り組んでいると、自由に湧いてくる思いを表現できる形が自分の中から生まれてくるようになった。腱鞘炎という挫折が自らの作曲の能力に気づかせてくれ、「ほかの人にはできない自分だけのハープ」を生み出すことにつながった。  現在は日米での演奏活動を中心に、オーディエンスと思いを共有できるコンサートを目指す。指導も行っているが、みりあむさんが教えるのは大人。「自分が大人になってから始めたので、ぶつかる壁などがわかる。その人自身が培ってきたものを活かせるよう導きたい」。ハープは大人が始める楽器に適している。初めてでも音をすぐに出すことができ、何よりもその美しい音の響きは小川のせせらぎやそよ風のように心に作用し、日々のストレスを癒してくれる。「ハープを奏でることで心をリセットでき、性格が変わる人も多い。ハープは怒りながらは弾けないから」。弾くことで〝心を深く養われる〟ことに気づいたみりあむさん。そんなハープとの出会いに感謝を込めて、これからも癒やしの音色を奏で続ける。

  • 「勝利で恩返しを」

アマチュアボクサー

赤井 英五郎 / Eigoro Akai


 

    「勝利で恩返しを」 アマチュアボクサー 赤井 英五郎 / Eigoro Akai  

    2019年05月02日 ロサンゼルスで暮らす人々

     ロサンゼルスの大学を昨年卒業し、今回1年ぶりに戻ってきた赤井英五郎さん。東京五輪出場を目指すアマチュアボクサーだ。今夏行われる大会に向けた合宿のため、再びこの地を踏んだ。  小学校6年でハワイに留学。中学ではラグビー、ハイスクールではバスケットボールとアメリカンフットボールをプレーした。ボクシングを始めたのは、大学のためにLAに移ってからだ。ボクシングをやろうと思ったときに東京五輪が発表になり、「これも縁かな」と思ったという。「それまで興味はなかったけど、父が父だし。大学進学のときに今後の人生を考えたら、学業は後からでもできるけどスポーツは時間が限られていると思った」。  父は元プロボクサーの赤井英和。引退後は俳優として今もなお活躍中だ。「子どものころから父のことを言われて比べられて、それが嫌でやらなかった」というボクシング。しかし「どういうスポーツなんだろう」という気持ちが湧いてきた。実際にやってみると、その難しさを痛感。それまでやってきた競技とは体の使い方も違い、「パンチを受けるだけでも体力を使う。1対1だから自分の短所も自分でカバーしないといけないし、お互いをカバーし合えるチームメイトもいない」と、個人競技の厳しさを知った。  まずはアメリカで試合に出ようと考えたが、経験試合数の少ない選手が出場できるノービスクラスではミドル級の対戦相手がなかなか見つからず、3試合連続で流れてしまった。そこで「日本でやってみよう」と考え、大学を休学して帰国。地元関西で選手登録し、ようやく試合に出場することができた。2018年からは「他の選手たちはみんな、場数が違いすぎる。とにかく自分はグローブを着けている時間を増やしたい。みんなが1練習するなら自分は3やらないと勝てない」と、より選手の多い東京に移り、12月に4回目の出場で社会人全日本選手権を制した。  現在は、五輪を目指す理由をこう語る。「東京農業大学と帝拳ジムで練習させていただいて、恩返ししたいと思っている。そのためには試合で勝つことしかできない。五輪に出場して結果を残せれば、それ以上の恩返しはないと思っている」。どういうスポーツなんだろうという興味本位で始めたが、父の発言力は大きく、「メディアで自分の名前が出てしまったし、生半可な気持ちではできない。挑む覚悟にはプロでもアマでも差はない」と胸のうちを明かす。  日本、ハワイに次ぐ〝第三の故郷〟だというLAは、「ド素人でボクシングを始めた」赤井さんを真剣に受け止めてくれた。「帰ってきた感じがするし、息抜きになる」というこの街は夢への挑戦も支えてくれる。

  • コンプレックスを自信に

プラスサイズモデル/女優/コメディアン

藤井 美穂  / Miho Fuji


 

    コンプレックスを自信に プラスサイズモデル/女優/コメディアン 藤井 美穂  / Miho Fuji  

    2019年04月25日 ロサンゼルスで暮らす人々

     〝自由の国〟といわれるアメリカで、自分らしさを発見した藤井美穂さん。プラスサイズモデル、女優、そしてコメディアンという肩書を持つ。インスタグラムでは6万5000人のフォロワーがいるインフルエンサーだ。  日本人にとっては聞き慣れない〝プラスサイズモデル〟という言葉だが、欧米では世間的認知度は高い。米国の一般女性の平均であるLLサイズ以上のモデルを指す。「日本では外見のことをすごく言う。『あの子、自分のことかわいいと思ってるよね』が悪口になるって怖い。ここでは、生まれ持った変えられないことについては言わないという暗黙のルールがある」と藤井さんは語る。  子供のころから目立つのが好きで、小学校の学芸会では選ばれずに泣いたこともあるという。13歳でずっとやりたかった劇団に入り、役者活動を開始。しかし、中高一貫校へ行きはじめるといじめにより不登校になった。高校は別の学校へ進学。そこで「特技が欲しくて」入ったなぎなた部で競技に打ち込み、インターハイ、国体にも出場した。練習がキツくて「今よりずっと細かった」という当時だが、体型のことで辛い思いをすることはしばしばあった。スキニージーンズを履いていたら友人に笑われた。それでも傷ついた反応はできず、面白い反応をしてしまう。そうすると「イジってもいい」と思われてしまう。そんなことの繰り返しで、何度も傷ついた。  渡米を決意したのは、舞台を学んだ短大でのこと。国際的に活躍する演出家に出会い、「世界に出ろ」と言われ大きな影響を受けた。卒業後、女優を目指して渡米。語学学校で1年間英語を学んだ後、ロサンゼルスの演劇学校に入った。言葉の壁はまだまだ厚いと感じながらも、英語で即興演劇や漫談にもトライしていた。そんなある日、友人のすすめでプラスサイズモデルについてのYouTubeチャンネルに出演。これが藤井さんの人生を変えた。ソーシャルメディアのフォロワーが増え、スポンサーがついた。日本のプラスサイズ雑誌にも出た。「やってから面白いなと思い始めて、自分自身がすごく変わった。自信をもっていいんだと気づいた」という。  「私なんて」と自分で可能性を消してしまっていた日本を飛び出し、可能性が広がった。「あれもやっていいんだ、これもやっていいんだ、と思えるようになった」と話し、日本ではコンプレックスでしかなかった外見をほめられ「人は自分のいいところを見てくれている」と気づいた。「それを、日本で昔の私のような思いをしている子たちに伝えたい。自己肯定感を高められるようにしてあげたい」。共感者であり、伝道者。それが藤井さんだ。

  • 「死ぬまで勉強」

タトゥーアーティスト

Tatoo Koji


 

    「死ぬまで勉強」 タトゥーアーティスト Tatoo Koji  

    2019年04月18日 ロサンゼルスで暮らす人々

     日本では若い世代には浸透しつつあるものの、一般的にはまだまだ偏見が見られるタトゥー。しかし米国ではファッションやアートとして幅広く認知されている。ここでは文化として根付いているだけに、技術もどんどん新しくなり発展していくのだという。「進化するためにもここに居続けたい」と話すのは、日本人タトゥーアーティストのKOJIさんだ。  タトゥーに興味を持ったのは叔父の影響。背中一面に施されたタトゥーを見て育ち、もともと絵を描くのが好きだったこともあって自然にアートとしてタトゥーを受け入れていた。日本ではタトゥーショップへ行くとかなり高額になるが、「自分でやればタダだから」と自らの肌にインクを重ね、練習をしていたKOJIさん。高校生のとき、初めて自分で描いたデザインをタトゥーアーティストに入れてもらい、18歳でこの道へ進もうと決めた。  はじめはアルバイトをしながら生計を立て、タトゥーだけで生活するようになったのは23歳。我流で始め、まだインターネットも普及していなかった当時は本や雑誌で研究をした。しかし我流では限界を感じ、技術向上のために昔からデザインが好きだった彫り師に弟子入り。その後、独立して自分のショップを開いた。コンベンション参加のためにたびたび訪れていた米国へ来たのは2013年のこと。文化やデザインに惹かれ、「いつか行きたい」とあこがれを抱くようになっていた。  「繊細な技術やデザインは今でも日本が一番だと思う」と話すが、渡米してすぐ、日本の技術は日本でしか使えないことに気づく。「日本の技術は日本人向けのもの。米国では通じなかった」。日本人の皮膚はきめ細かく彫りやすい。色も映える。しかしこちらでは、肌の色、皮膚の厚さが違う人が多い。同じことをやってもうまくいかず、道具を変えたりと試行錯誤する日々を送った。もう一つ壁となったのが語学だ。タトゥーは基本的に一生残るもの。そのため、デザインについてもお客さんとよく話し合って決めなければならない。「最初は言葉が一番大変だった」と振り返るが、働いているショップで日本人は自分だけという環境の中、英語は自ずと身についていった。  生活の一部としてタトゥーが馴染むLA。「コンビニ感覚でタトゥーショップがあるし、街なかを歩いていれば目に触れる」と、KOJIさんもすっかりこの街に溶け込んでいる。「タトゥーはムーブメントの世界。はやりがあるし、新しい技術がどんどん出てくる。有名だった師匠でさえも自分を半端だと言っていた。だから自分も一人前は名乗れない。死ぬまで勉強。ずっとここでやっていきたい」。

  • 自分らしさ 踊りで表現

ジャズダンサー

有末 里紗 / Risa Arisue


 

    自分らしさ 踊りで表現 ジャズダンサー 有末 里紗 / Risa Arisue  

    2019年04月11日 ロサンゼルスで暮らす人々

     プロになった今でも、好きで上手になりたいという一心で踊りに向き合うのは、ジャズダンサーの有末里紗さんだ。「世界で通用するダンサーになりたい」という思いを胸に、刺激を求めてロサンゼルスへやって来た2001年のダンス留学、日米を往復する生活を経て、現在はダンススタジオのマネジャー兼講師を務めながらパフォーマーとしても活躍する。  医者には治らないと言われている側弯症があり、体を動かすほうが良いとのアドバイスを受けて11歳から母のすすめでジャズダンスを始めた。もともと体を動かすのが好きだったが「内弁慶な性格」。家では注目されるのを好んだが、外ではかなりの引っ込み思案で人前に立ってしゃべるのも苦手。しかし感受性が強く、音楽をかけながら体を自由に動かし表現することが好きだった。  ダンスに本格的に興味が出てきたのは中学校のころ。先生の振り付けをレッスン後に紙に書いて家で練習するようになり、できないことが悔しいという思いが湧いてきた。どんどんのめりこんでいくと、高校に入ったときには将来はプロのダンサーになると決めていた。夢がかなった今でも、「緊張するタイプ。だからこそ、本番で頭が真っ白にならないためにもものすごく練習する。コツコツ型です。日々の積み重ねが大事」と真摯に練習に取り組む。  2016年、新境地を開拓する出会いがあった。米国人ジャズピアニストと知り合い、ライブに出てみないかと誘われたのだ。「自分の中で衝撃的だった。ジャズの生演奏で踊るということはメロディ、テンポが毎回違って合わせるのが大変。臨機応変に対応しなくてはならないことはすごいチャレンジ。でも楽しくてやりがいがある」。毎回ショーの後には踊りについても衣装についても多くの反省が出てくるといい、ミュージシャンたちと互いに試行錯誤しながらインスピレーションを受けている。  「踊りの勉強は終わりがない。まだまだやれないことが多いし、満足することがない」という里紗さんにとって、ダンスは自分を最大限に表現できるもの。そして自分らしくいられる一番の方法でもある。感情を伝えることが好きで、自分が伝えようとしていることをお客さんが理解できるような表現者になりたい。そんな気持ちで、探究心を忘れず踊り続ける。窮屈に感じていた日本を抜け出し、やっと自分の居場所を見つけたという第二の故郷LAでは、ダンスを通してさまざまな人と知り合った。ジャズ以外あまりなかった興味も広がり、ここに来なければできなかった経験もたくさんある。「これからもここで、ずっと踊りと携わっていけるように努力したい」。