連載・コラム ロサンゼルスで暮らす人々

編集: Weekly LALALA - 2019年10月30日

”筋トレママ”が作る健康&ハッピーライフ

ヘルスコーチ 産前産後フィットネストレーナー

井戸本 結実

Yumi Idomoto
 

ヘルスコーチ&産前産後フィットネストレーナーとして活動する井戸本結実さん。「クライアントが変わってきたり、ブログでメッセージをもらったりするとやっていてよかったと思う」。人助けがしたいという思いで指導に励む(公式ウェブサイト yumiid.com)

 〝フィットネス天国〟といわれるここカリフォルニア。エクササイズに精を出す人も多く、気候の良さも手伝って健康的なライフスタイルを実現しやすい。

〝筋トレママ〟を名乗る井戸本結実さんはACE(American Council on Exercise)認定ヘルスコーチ&産前産後フィットネストレーナー。食生活やトレーニング、マインドセット、睡眠など、クライアントが求めるものを見極めて指導を行なう。

「運動すると寝付きもよく睡眠の質もメンタルも向上する。ずっと若くいられて、人生全体がポジティブになる」と、筋トレのポジティブ効果を説く。

 

独身時代は東京のPR会社に勤務し、一人暮らしもあって食事も不規則な生活を送っていた井戸本さん。

激務によるストレスで帯状疱疹を発症し「若さで乗り切っていた」が、PMS(月経前症候群)と鼻炎性アレルギーもひどかった。

人生を変える筋トレとの出会いは2013年。結婚し、ご主人の都合で引っ越したワシントンD.C.で「ハマってしまった」。

半年ほどで効果に気づき、気になっていた下半身が細くなりスリムパンツが履けるように。

全身が引き締まり、コンプレックスも解消された。それでもPMSは相変わらずで、アレルギーも悪化。

「なぜこんなに不調なのか」といろいろ調べた結果、原因がカフェインと砂糖の摂りすぎにあると気づき、生活を改善すると体調は劇的によくなった。2年後に日本へ帰国。

筋トレや食生活についての動画をInstagramにアップしはじめた。そのうち教えてほしいという人が増加し、パーソナルトレーナーの資格を取得。ウェブ発信、マンツーマンコーチ、フィットネスクラス開催による「人助け」が始まった。

 

今夏、家族でロサンゼルスに生活拠点を移した。

現在は「研究に基づいた内容」にこだわって情報を発信している。

「私は英語で文献を読めるし、それを日本語で伝えていくのが自分の使命」と話し、それにより健康情報が一歩遅れている日本の意識を変え、正しい知識を広めたいという。

「1対1だと一度に1人しか助けられない。でもネットなら不特定多数の助けになれる」。

 

昨年には産前産後フィットネストレーナーの資格を取得した。自身でも出産を経験し、産前産後エクササイズの重要さを実感したからだ。

「産後の治癒を早める専門トレーニングは母親にとってはリフレッシュにもなる」。

妊娠中も筋トレをしていた井戸本さんは、筋肉がしっかりついていたことで体力もあり産後の回復も早かった。

また、母親の機嫌は子どもの情緒に影響を及ぼす。それを実感しているから「筋トレでハッピーなお母さんを作り、子どももハッピーになってほしい」と願いながら活動している。

「子育ての小さな悩み相談ができない人もいる。そういう人のためにコミュニティを作りたい。家にこもって孤独になりがちだから、エクササイズで外に出るきっかけになれば」と話す

LAではオンラインからの発信がメインだが、そのうちクラスなども開講していきたいという(instagram@yumiid)

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        「今も“プロレスラーなう”」

プロレスラー

柴田 勝頼|Katsuyori Shibata


 

    自由の国の青空に救われ         「今も“プロレスラーなう”」 プロレスラー 柴田 勝頼|Katsuyori Shibata  

    2018年10月04日 ロサンゼルスで暮らす人々

     「カリフォルニアは気候も食べ物も合ってますね。もう自分の居場所になってるんでしょうね」と、笑顔で語る柴田勝頼さん。職業はプロレスラー。かつて同業だった父の影響もあり、高校卒業後に新日本プロレス入りした。「プロレスって自分の人生だと思ってます。米国のプロレスはキャラクターやストーリーが重視される。でも日本のプロレスではストーリーは自分の人生。生き様を投影できる。それをすごく体現していたのが自分だったと思う」。そう過去形で話すのは、リングから約1年半遠ざかっているからだ。  昨年4月の試合後、急性硬膜下血腫を発症した。医師には助かる確率は18%と言われながらも「命拾いした」が、以降は治療とリハビリの日々。しかし「いつ試合ができなくなるかわからないから毎回全力を尽くす。けがをしたからあの試合をしなきゃ良かったとは思ってない」と、後悔はない。  今年3月、所属する新日本プロレスがLAに道場を設立した。環境を変えたくて、「行きたい」と直訴。コーチとして4人の練習生を指導する現在、すっかりLAの空気に馴染んでいる。「来る前はやっとジムに行けるようになった状態で、人に見られたくなくてこっそり1人で練習したり。ここでは練習にすごく集中できる。天気がいいし、この広い青空が気持ちを解放してくれる。カリフォルニアの空が自分を救ってくれました」。渡米直後は悪かった体調も戻り始めている。実際に動いて道場生を指導する中で「身体のハリが戻ってきた。つい最近ですね。感触としては60%とか」と明かす。医師が治らないと言った後遺症の同名半盲も回復の兆しがある。人気選手だけに日本では悩まされた周囲の雑音も人目も、ここでは気にならない。もともと細かかった性格は「いい意味で雑に」なった。「道場が好きで丸一日いますね。落ち着きます。こっちに来たのは大正解ですね」。そう言うほど、カリフォルニアの青い空は居心地がいい。  追い込んだ練習はまだできないが〝リハビリ〟は〝トレーニング〟になった。「徐々にリングに近づいている感触はあります。何もしないで終わるよりはそこに向けての全力を尽くしたい。日本では『無理だよ、やめなよ』とかばかりだけど、ここは自由の国だからトライできる。復帰を考えると焦りしか出てこないし、今はそれを外しちゃって、やれることをやってます。一日一日が『あ、これできた』『あ、今度はこれ』って」と話す表情には充実感がある。たまに、大好きな『あしたのジョー』と自分が重なるという。「まだ灰にはなってないですけど」と笑う。時期が決められないなら、決めない。気長にやろうと決めた。「まあ、自分は『プロレスラーなう』ですね、今も。こっちでがんばってる。リタイヤか続けるか、白か黒か色ではっきりしろと言われるなら、自分はカリフォルニアのスカイブルーですね(笑)。以上!」

  • 先人への感謝、 若人に継承

協同システム 羅府中央学園主任

蔡 正子|Masako Chai


 

    先人への感謝、 若人に継承 協同システム 羅府中央学園主任 蔡 正子|Masako Chai  

    2018年09月27日 ロサンゼルスで暮らす人々

     1948年に創設された全米最大規模の日本語学校、日本語学園協同システムのロサンゼルス羅府中央学園で教える蔡正子さんは、結婚相手の米国留学を機に渡米した。まずは語学学校に通い、間もなく日系商社に就職。5年間勤めた後に子どもができたため退職した。渡米前は生活できるのだろうかと不安だったが、いざLAに来てみると住みやすくてすぐに馴染めたという。「当時から日系人の方々には感謝の気持ちがありましたね。先人が築いた日系社会に対する信用などを継承していきたいと思いました」と振り返る。中央学園との関わりは5歳になった子どもを入学させたことが始まり。当初は父兄として学校運営に携わると同時に、代理教師として中央学園で働いていた。その後、中高等部で教師となり主任を務め、パサデナ学園の主任を経て再び中央学園主任となり、現在まで現役で教鞭をとる。  日本人、日系人どちらの子どもも通う中央学園では、レベルの異なる子どもたちを一緒に教えなければならないため教える側の苦労は大きい。親が新一世の場合や渡米間もない子どもたちは読み書きも会話もできるが、「日本語がわからない子に教えるのは一番大変」だという。親の日本語能力によって子どもの日本語能力もかなり変わってくるため、学校側は個々のケースに応じて対策を取る。また、全員が動機があって入学するわけではなく、「日本語に興味のない子が騒ぐのが大変です(笑)」。モチベーションやレベルの違う生徒をどう指導するか教員同士で話し合い、使用する教材を代えるなどの対応をしながら、外国語としての日本語を文化や料理、歌から覚えさせるといった工夫をし、日本の言葉と文化を伝える授業を行う。苦労も多いが、蔡さんは「子どもたちの成長を見ることや、卒業生の子が学校に入ってくるとまたうれしいし、日系二世、三世が多いのもうれしいことです」と充足感を見せる。  蔡さんが日本語教育以外にも重視するのが、感謝の気持ちを教えること。中央学園の校舎は父兄たちの協力により建てられた。「当時の日本人のがんばりがすごかったんだと思う」と話し、生徒たちには常に「この学校は日系人の先輩たちが建てたのだからきれいにしなさい」と言う。「若い人たちにそういったことを後々のために伝えて、今あるものは自分たちのためだけではないということを考えてほしい」。日本語教師として、米国で暮らす日本人としての思いだ。「日系社会もいろいろ分かれている。一人でも多くの日系人に日本語学校に参加してもらって、日本語はもちろん、日系人が残していった財産、歴史を共有してほしい」。これからの時代を担う若人たちへの願いを胸に抱きながら、今日も教壇に立つ。

  • 作品通して伝える 次世代への想い

映画監督

光武 蔵人|Kurando Mitsutake


 

    作品通して伝える 次世代への想い 映画監督 光武 蔵人|Kurando Mitsutake  

    2018年09月20日 ロサンゼルスで暮らす人々

     映画監督、光武蔵人さんの売りは「米国にいることを武器に低予算日本映画をLAで撮影する」こと。キャストからクルーまで全員を日本からアメリカに呼びよせれば人件費は膨らむ。しかし土着のクルーが撮影を行えば費用を抑えることができる。これまで監督した長編映画3作はいずれも日本では全国順次公開されているが、目標とするハリウッド映画での監督は「まだ遠い」という。外国籍の監督がオファーを得るには、母国での全国同時公開規模の成功が必要。「今はちょうどキャリアの転換期。フェーズ1ではそこそこ成績を残せた。次は日本で全国同時公開規模の映画をやりたい。それをフェーズ2とするなら、フェーズ3はいよいよハリウッドに呼ばれてやるというのが僕の野望」と語る。現在はエージェントから打ち合わせに呼ばれることはあるものの、なかなか次のステップに進めないのが悩みだ。  映画に興味を持ったのは、子ども時代にテレビで毎週放送されていた洋画劇場。もともと〝お話を語る〟ということに魅力を感じていたといい、物心ついたある日、スピルバーグ監督の『激突』という映画をテレビで観て感化され「映画に取り憑かれてしまった」。80年代、90年代の当時はレンタルビデオバブルの時代。圧倒的に本数が多かったのは米国映画で、漠然と「米国で映画の勉強を」という思いを抱いていた。渡米は高校生のとき。高校1年を日本、2~3年を米国で学べるという学校の新聞広告を父が見つけたことから実現した。高校卒業後はサンフランシスコの芸術大学に進学、映画学科で2年間勉強し、大学3年からはバレンシアの大学へ。大学院まで修了すると日本のコーディネーション会社を経て独立した。実は、2010年には一度、活動拠点を移すため日本へ帰国している。しかし東日本大震災をきっかけに再びLAへ戻ってきた。  これまでの作品では「人は負けるかもしれない戦いにあえて挑むべきときがある」というメッセージがメインテーマだ。「歯向かうとか抗うのは大事なこと。右向けと言われて右向くだけの人生よりも豊かになる」。70年代、80年代のアクション映画の基本はモラル・テールだったが、最近は映画産業の商業主義化によって豊かさが減少し、かつてのような個人のビジョンやメッセージ性のある作品が少なくなっていると光武さんは考える。「若い人に、僕の作品の中でそういうことを感じ取ってもらえればいいかなあと。昔の映画は、そういうことを僕らに教えてくれたと思うんですよね。大事なことは映画で教わったというか」。  次の世代に、自らの作品を通して大切なことを伝えたい。そんな思いを胸に、大好きな映画と向き合っている。

  • 夢与えるため夢実現へ

映画監督

大澤 広暉|Hiroki Ohsawa


 

    夢与えるため夢実現へ 映画監督 大澤 広暉|Hiroki Ohsawa  

    2018年09月13日 ロサンゼルスで暮らす人々

      人に夢を与えたい。大澤広暉さんが映画監督を志す理由だ。LAのニューヨーク・フィルム・アカデミーで映画製作を学び、昨年修士課程を修了した。しかし一度は玩具の会社で営業職に就いている。  子どものころからおもちゃが好きで、日本の玩具を原作にハリウッドで映画としてリメイクされた作品でもある『トランスフォーマー』にあこがれた。そんなバックグラウンドから、就職活動は玩具業界と映像業界に絞った。 日本の大学では映像製作は副専攻だったが、自主制作で撮った作品が賞を獲った。   それでも映像関連ではなく玩具会社に就職したのは「小さいころから〝ストーリーを伝える〟ことが好きだった。 自分が一番使える映像というツールでストーリーを伝えるか、おもちゃというツールを使ってストーリーを伝えるか。どちらも夢を与えることには変わりない」と考えたからだ。  2年間働いた玩具会社を退社し、米国へやってきたのは4年前。会社の商品のプロモーション映像を自社制作したいとも考えていたが、映像専門の学部出身でもなければプロとしての経験もないため実現が難しく、「学生時代に賞を獲ったといっても趣味のレベルは超えられない」と痛感し、映像制作を一から学び直そうと思ったのがきっかけだった。それまで海外志向はまったくなかった。 しかし「世界の中で最高の映画の教育が受けられるところはやはりハリウッド。どうせなら海外に行くのもありかなという思いがそこで芽生えました」。  LAでの進学先は「入学翌日からユニバーサルスタジオ内でカメラの講習を受けるような非常に実践的」かつ休み返上のカリキュラムが売り。さらに外国人学生が多く、結果としてワールドワイドなコネクションを作ることができたという。 「能力を認めてくれると元クラスメイトがスタッフとして呼んでくれたりして、いろいろな経験ができるのは将来にもつながる。ワールドワイドな視点も強み」。 学生時代は監督した作品がノミネーションを含めて複数受賞したが、卒業したからといってすぐに映画監督になれるわけではない。   現在はウェブシリーズの番組の監督や、監督兼プロデューサーとして日本語教材の映像コンテツに携わるなど、異なる活動を通じて基盤を築いている最中。 いずれは自分の作品で日本の文化を発信していきたいと考えている。   米国で足下を固め、そのバックグラウンドを背負った状態で日本へ行き、最終的には日米をまたいで仕事をするのが目標だ。 夢を与えるために、まずは自分の夢実現を目指している。

  • 研ぎにかける一生

日本美術刀剣研磨師

ジミー・ハヤシ|Jimmy Hayashi


 

    研ぎにかける一生 日本美術刀剣研磨師 ジミー・ハヤシ|Jimmy Hayashi  

    2018年09月07日 ロサンゼルスで暮らす人々

     日本刀の研磨を生業とする日系三世のジミー・ハヤシさん。高校生のころ「一生かけて仕事をする」というプロの研ぎ師の姿勢に感銘を受け、将来の道を決心した。「売買は嫌いだからしない」。今でも研ぎ一本で生活する。  和歌山生まれで、1歳半のときに祖父母のいるサンフランシスコへ両親とともに移住。祖父は刀の骨董屋を営んでおり、幼いころから「刀は必ず周りにあった」という。「刀は本当の美術品。刀匠が一生かけて作るものだから一本一本に魂が備わっている」と教わって育った。子どもながらに地元の刀剣会に入会するほどの自称「刀キチ」。刀を触りながら一生やっていければと思っていた。  米国内には多くの日本刀が存在する。第二次世界大戦後、GHQに没収された刀剣の多くが米兵によって海を渡った。しかし日本刀の価値や扱いを知らない彼らによって、ほとんどは長年倉庫に放置されたり、軽石で磨くなどの行為によってぼろぼろに。それを見て、ジミーさんは本格的に修理できる日本の研ぎ師の必要性を感じた。「僕は刀が好きだから、だったら研ぎ師になろうって」。  高校1年生のとき日本へ行き、日本刀剣会の佐藤寒山氏に会った。夏休みを利用して日本で研ぎの勉強をしたいと話したが、返ってきたのは「研ぎはそんなに甘いものではない」という厳しいことば。「一流の研磨師は一生をかけて完璧な研磨を追い求めている」。深く心に響いた。自分もその道に進みたいと思った。佐藤氏と高校は終えると約束を交わし、1976年に無事卒業すると迷いなく日本へ。宮形紀興氏に弟子入りした。修行は試行錯誤の繰り返しで師匠も手取り足取りは教えてはくれない。「説明するのは簡単だけど覚えない。だから身体で覚えなさいって。それの繰り返しなんですよ、修行は」。8年間修行を積んで米国へ戻ると、ジミーさんの「研ぎの道」が始まった。  日本で本格的な修行を受け、現在アメリカで活動する研ぎ師はジミーさんのみ。「刀は一本一本を何人もが何百年と保存してきた。でも、たった1人の我流の研ぎが何百年の成果を崩してしまう。だから、本当は研ぎっていうのはプロしか触ってはいけないんです」。1本の刀ができあがるには、本物の漆を使った腰、絹を使用した巻糸、一つ一つを職人が仕上げるつばや目貫など、10人の職人が集まって初めて可能となる。いわば共同の芸術品だ。「だから、日本刀は日本の文化の技術の高さ、職人技が証明されている。それぞれが10年修行してから仕事になるんです。だから、1本の刀には合計すると100年分の修行が含まれていることになる」。近年、アメリカで高まる日本刀人気に、ジミーさんは喜びを隠さない。「日本の文化をわかってもらえるからいいと思う。僕は日本の文化は本当にすごいものだと思ってるから。日本のすごさを見ろって感じです」。今までもこれからも、師匠から教わった技術を米国で大切に継ぎながら、研ぎに一生をかける。